2016 再開祭 | 木香薔薇・玖

 

 

「侍医!」
部屋に踏み入った俺の声に、奴が机上の書き物から目を上げた。

「・・・驚いた。何事ですか、チェ・ヨン殿」
「皇宮前の、高官の邸街」
「ああ、迂達赤隊長の御婚約者様がお住まいの」

脈絡のない唐突な物言いの筋道を探すように、其処まで言った侍医の眉がふと寄った。
「まさか、御婚約者様に何か」
「敬姫様ではない」

あの方は表で薬員らを手伝い、笑い合いながら縁台の上に薬草を広げ日に当てている。
その姿を窓外に見ながら、俺は奴に告げた。

「先刻の捻挫の男」
「ああ、西京の貴族の御子息ですね。水桶に頭を突込んだという、あの例の」
「気絶した」
「・・・は?」
「らしい」

キム侍医は聞き捨てならぬと判じたか、難しい顔で席を立つと俺の前まで来た。
「詳しくお聞かせ下さい。転びかけて捻挫しただけなのでは。何故気を失うなどの大事に」
「知らん」
俺がトクマンに道案内を頼み、並んで件の茶店に辿り着いた時。
若造はあの方の膝枕の上だった。
思い出しただけで腹が立つその光景に、改めて唇を噛む。

突き飛ばしたと気が引けるのは判る。
出来るだけの治療をしたいのも判る。
だが往来の店先で男に膝枕をし、家まで送り毎日通うと言われては此方も立つ瀬がない。

止めても止まらぬ方だと知っている。
患者を見過ごせぬ方とも知っている。
しかし俺が見た限り、あの若造の何処にも捻挫以外の怪我を得た様子は微塵もなかった。

顔色も取り立てて悪いとは思えない。
敢えて言うなら、気になるのはその視線。
病人や怪我人としてではない。
熱に浮かされているとしても、それは病や怪我ではなく。

あんな浮かされ方を、切羽詰まった視線を、幾度か見た気がする。
俺を追い抜き敬姫様の許へ走ったチュンソク。
侍女殿を動きを追い駆け、見詰めるトクマン。

それは恋の熱、まさしく一目惚れとでもいうやつだった。

「・・・侍医」
「はい、チェ・ヨン殿」

聞いても無駄だろう。恋煩いに特効薬はない。医官では治せない。
しかし恋に落ちて、気を失うなどあり得るのか。

呼び掛けたまま黙った俺を、侍医が気遣わし気な目で見つめ返す。
まだそこまで心は開けない。
あの時奴に心裡を吐いたほど、素直になる事は出来ない。

じっとしていられない。俺はあの時、チャン侍医に言った。
あの方と離れて、あの方の苦境にただ口を閉ざし目を塞ぎ、待っているなど出来なかった。

此度は違う。
敵がいる訳でもなく、あの方の命が脅かされているでもなく。
あの若造の横恋慕に関して、確たる証拠があるわけでもない。
ただ気に入らぬだけだ。

こんな下らぬ邪推で騒ぎ立てるのは憚られる。
判っていても気分は良くない。
「治療を代われ」

それだけ言って部屋内で踵を返し扉へ向かう背に
「その捻挫の御子息の、ですか」
キム侍医は判り切った問いを返す。

他に誰がいるのだと怒鳴り返したい肚を抑え、俺は背を向けたまま頸だけで頷くと部屋を出た。
「待って下さい、チェ・ヨン殿!」

続いて駆け出て来た侍医は、庭まで声を掛けながらこの背を追って来た。
制止の声にも歩を緩めずにただ歩く。
そして振り向かぬ俺に業を煮やしたか、若しくはあの方に訊くのが早道と察したか。
縁台側まで追って来て侍医の足は向きを変えると、先刻まで俺の名を呼んでいた声は
「ウンス殿」

そう呼び名を変え、そして背後の足音は縁台のあの方の方へ逸れて進んで行った。

 

*****

 

「先刻の捻挫の患者が、気を失ったというのは本当ですか」
「うん、本当だけど・・・」

薬員のみんなと薬草干しの途中、いきなり呼び戻された部屋の中。
キム先生と向かい合った診察室で、先生の深刻な声に私は頷いた。

いずれにしろ一人での診断は危ないと思ってたし、今まで知ってる症例と全く症状が違う。
そんな意味でもセカンド・オピニオンは必須だから、却って助かったとは思う、けど。

向かい合う部屋の窓の外では、薬員のみんなが貴重な晴れ間に一生懸命薬草を干している。
広い庭中をあちこち走り回る白い医官服。
誰も足を止めずに、そうやってずっと手を動かしてるのに、時間がもったいないと思っちゃう。

確かにカンファレンスは必要だけど、今の優先順位は薬草干しだと思う。
第一ここに患者がいない。
テギョンさんなしでいくら病態だけを説明しても、四診も出来ないんじゃ時間のムダよ。

それを知らない人のはずないのに、キム先生がいきなりそんな事を言い出した理由が分からない。
「話そうと思った。これからしばらく、テギョンさんのお邸に通うつもり。
先生にも一度診てもらいたいし。でも、どうして突然?」
「・・・ええ、まあ、話せば長いので」
「そうなの?」

キム先生の言い辛そうな声に、これ以上聞くのは遠慮したけど。
「確かにおかしいと思う。脈診したけど、心臓に異常がありそうな脈じゃない。少なくても私の脈診では、そんな脈は取れなかった」
「そうでしたか」
「本人にも、家族同然の人にも確認したけど、今まで気絶した事は一度もないって」
「はい」
「転ばせた時に頭部・・・頭を打ってないか確認したけど、打ってはいないって。念の為触診したけど、内出血・・・瘤は特になかった」

私の声に、キム先生は難しい顔で腕を組んだ。
どうにもこうにも納得がいかなそうな顔。無理もない、私も同じ気分だもの。
そんなキム先生に向かって、私は卓越しに体を倒して向き合い直す。

まずは捻挫だけなのか、それとも合併症状があるのか、もしくはもっと深刻な全く別の病気なのか。
ここまで関わった以上、今さら見捨てるなんて出来ない。
「原因がはっきりするまで、それに少なくとも、私に責任がある捻挫が完治するまで。
典医寺の勤務時間外で構わないから、お邸に往診したいの」

私の宣言にキム先生は頷きも首を振りもせず、曖昧な表情で私をじっと見返した。

 

 

 

 

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