2016 再開祭 | 紫蘭・結 後篇(終)

 

 

「・・・王様」
その声に眉を顰めると、脇から節高い指が絵紙の上に一本伸びた。
「陽射しは、此方から射しておりました」
「そうであったか」
「は」

その声にあの日の光景をもう一度思い出そうと腐心する。
目を閉じて、あの時射していた陽射しの色を。咲いていた花を。
世にも珍しい医仙の白絹の長衣と、チェ・ヨンの黒絹の衣とを。

そして今まで見た事もない、溶けそうな笑みを湛えたその双眸を。
思い描いて目を開け、今一度絵筆を走らせた途端に
「・・・王様」

もう一度伸びて来たその指に、この手に握る筆を音高く卓へ戻す。
その音ひとつで部屋内は水を打ったよう静まり返り、全ての者らがこの機嫌を阿るよう遠巻きに様子を伺っておるというのに。

寡人の腹心であり初めての民であり、この国の武を一身に背負い立つ最も大切な朋であり、無双の重臣であるこの男だけが。
そんな場の雰囲気も読まず、眉間に厳しい皺を寄せ、眇めた目で絵紙を覗き込んでいる。
まあ相手が誰であれ顔色を窺い機嫌を取るなど、そもそもするような男ではない事は充分に承知だが。

「先刻より煩いのぅ」
「畏れながら」
全く畏れておらぬ口振りで言う処がこの男らしい。
幾ら金子を積もうと、どれだけ豪壮な袖の下をちらつかせようと、その心の動かぬ物など歯牙も掛けぬこの男が。
その心が許せぬと思えば、相手がどれ程の強大な敵であろうとも向こう見ずに相対する天下無双の高麗守護神が。

「この辺りの、髪が」
そう言って指は再び紙の上の絵姿の女人を指す。
「違います」
「・・・どう違うというのだ」
「どう、とは」
「チェ・ヨン」

呆れ果てて物も言えぬ。これはしゃしんとやらではないのだ。
生き写し、そのままの姿を描けるわけがない。
まして医仙の姿だ。王妃であれば生き写しの姿を描く自信がある。

「それならば、そなたが描いてみよ」
「・・・王様」
チェ・ヨンは突然の無理難題に、困ったように口を結んだ。
「王様」

そんな我らの押し問答に、取成しの柔らかい声が掛かる。
「御無理を申しては」
「あ、ほらほら、私の髪はこんな感じですから」
どうにか張り詰めた空気を和らげんと、続いて明るい声がする。
そして王妃付のチェ尚宮は今にもチェ・ヨンを叩き伏せんばかりの目で睨みつけ、ドチがそんな我らを順に見て如何すべきかと息を飲んでおる。

坤成殿の窓は大きく開かれ、温かな風が吹いて来る。
王妃は医仙と並んで椅子に腰かけ、卓上に絵紙を広げた寡人はその医仙の顔を描き取っていた。
その寡人を守る名目で横に立っておるはずの男だけが、先刻よりあれこれと指も口も出して来る。

「描いてみるが良い、チェ・ヨン。思ったよりも難しいぞ」
むきになる声に断ると思ったチェ・ヨンは一礼すると、先刻この手を離れた筆を取り上げた。
そして卓向こうで掌で額髪を上げたままの医仙に目を走らせると、躊躇なく一息に握る筆先を絵紙へと落とした。

 

坤成殿の窓から入っていた風はいつしか止み、窓の陽が描く床の影の紋様が変わる。
今は中天近くから射す陽が、窓枠越しの皇庭を切り取っていた。その窓枠ごと、まるで一幅の大きな美しい絵のように。

かめらとやらがこれをこのまま写し取れるなら、下手に人の手で描かぬ方が良いのだろう。
在るがままの景色こそが何にも増して美しい。

じきに昼を伝える刻、チェ・ヨンはそれまで素早く走らせていた筆先を止め、腹の底から大きな息を吐く。
そして顔を上げ寡人に、そして王妃にと礼をした。
その礼を受け椅子から腰を上げた王妃が、続いて医仙が、卓を廻り絵紙を覗いて息を呑む。

「これは」
「・・・やだ」
その後の声を詰まらせる大切な方々の中、次はこの指が絵を指す。

「・・・チェ・ヨン」
「は」
「これは、何だ」

絵姿の右脇にある緑の塊を指で示すと
「あの折、茂っておりました。梔子です」
「・・・梔子なのか」

何という事だ。どう贔屓目に見ても、緑の雲にしか見えぬ。
「これは」
「庭におりました。他の者らが」
案山子ではなかったのか。言わずにおいて良かった。

人並み外れて風姿魁偉と謳われ、その武功の力は言うまでもない。
元に居る頃に噂で聞いていただけの雷功すら、その掌より放つ男。
武技だけではない。その統率力、何があろうと志を曲げぬ実直さ。
そうかと思えば武経七書だけに留まらず、四書五経を始めとした書を嗜み、漢文を操り、出身も身分も申し分ない初めての民。

そしてもう一つ、こんな才まであったとは。しかし
「成程」
そうとしか声が出て来ぬ。

そこに描かれた医仙こそ、まさしくあの日の医仙そのものだった。
絵姿の中、今にも横顔の伏せた目が上がり、こちらを見て温かく笑いかけ、明るい声で王様、王妃媽媽と言いそうなほど。
絵の中の頬に落ちる睫毛の影の一本、髪に挿した花飾りの花弁の一片、金簪の飾り細工の揺れる音までが聞こえそうだった。

それ以外が緑の雲と案山子なのだけが解せぬ。しかし男など、そんなものなのだろう。
どれ程佳き日の美しい光景の中でも、愛おしい姿以外目に映るのは緑の雲と案山子。それで良いのだろう。

これが証だ。改めて言うには及ばぬ。
心の中に思い出は刻まれる。いつでも取り出して姿を眺められる。
その日の姿を永遠に、決して色褪せることなく。
初めて顔を合わせた刹那よりの全ての景色が、その面影が雲母のように心に積もり、いつまでも変わらぬ輝きを放つ。

けれどこうして何かの形に残したいと思う。
それは己の記憶が薄れるからではなく、忘れ去るからではなく、愛おしい者が望むから。
男などそんなものだ。同病相哀れむ心持で、目の前の初めての民を見遣る。

そしてその男は改めて深々と頭を下げると、無礼を承知の顔で願い出る。
「王様。お許し頂けるなら」

みなまで言う事もなかろう。その心持はよう判る。
生き写しなら生き写しな程に、他の目に触れさせとうはない。
この心が知っていれば良い。この瞼の裏にだけ焼き付いておれば、本来はそれだけで充分なのだ。

そしてこの男も折に触れそれを取り出し飽かずに眺めるであろう。
あの佳き日にどんな想いで、その絵姿の中の女人を見詰めたかを昨日のように思い出すであろう。

その度に欲するであろう。この世に足跡を残したい。
己の栄華の為でなく、その足跡と対になった誰より大切な方の名を残したい。その名を忘れ去られたくないと。
最後は金革の力でも、武力でも、ましてや私利私欲などでなく、そんな愚直さが大きな流れとなってこの世を変えて行けるなら。

この生き写しの絵姿を女人を護れ。寡人は心に刻まれた大切な方を守る。
そなたは地を治める虎となれ。寡人は天を治める龍となる。
それさえ叶えば他のものなど、緑の雲と案山子で構わぬであろう。

この絵姿はそなたのものだと、口にはせずに絵紙を渡す。
男はそれを写した手で受け取ると、暫しその絵姿に魅入られるようじっと眺めてから丁寧に折り畳む。
最後に懐の袷へとそれを納めて、衣の上からそっと大きな手を押し当てた。

 

 

【 2016 再開祭 | 紫蘭 ~ Fin ~ 】

 

 

 

 

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