2016 再開祭 | 馬酔木・中篇

 

 

「君の名は」

あの春。
頭の上からは元気を出せと、白い花がちらちら降って来た。
蹲る地面の足元には土筆の頭が、空に向かって立っていた。

膝を抱えて小さくなって、庭の隅にしゃがみ込んだ。
花の励ましも土筆の元気も、どっちも目には入らなかった。

何故毒草は枯れないのに、それを食べると人は死ぬんだろう。
何故花は何も食べず咲けるのに、人は食べないと死ぬんだろう。

誰にも見つからない草になりたい。何も食べない花になりたい。
駄目なら地面を這い回る、指でつつくと丸まる団子虫でいいから。

そう思ってうんと背中を丸めた時。
天に伸びる土筆の頭を大きな影が覆った。そして花の雨が止んだ。
上目づかいに見上げると、背の高い人が目の前にしゃがみ込んだ。

真っ白い長い上衣の裾が庭の土の上にこすれても気にしない顔で、その目は真っすぐに私だけを見ていた。
そしてさっきまで私にだけ降っていた花は、今は二人の頭の上から降っていた。

「君の名は」

その人は優しい低い声でもう一度言った。

・・・トギ。

この唇を読んだその人は、何でもない顔で頷いた。
「トギ。良い名だね」

誰もそんな風に、言ってくれた事はなかった。
気味が悪い。何で話さないんだ。鯉みたいに口だけぱくぱく。
鯉なら沼に帰れ。そう言って沼に突き落とされた時もあった。
そして大人たちはただ黙って、眉をひそめて私を避けた。私だけじゃなくて、父さんも母さんのことも避けた。

「トギ。君の父上はとても・・・有名な薬師だったんだ。君がもう少し小さかった頃、私は一度此処に来た事があるよ。
憶えているだろうか」
私の前にしゃがみ込んだその人は、優しい顔で言った。
「母上にお会いした事は、残念ながらないけれど」

そして誰もいなくなった父さんの薬房を、その後に私が蹲っていたうちの前の大きな薬草園を、しゃがみ込んだその人は見た。
しばらくじっと眺め続けて、それからゆっくり私に顔を戻した。
「トギ」

なに。

私はそんな短い言葉しか話せない。長い言葉を唇だけで語っても、誰一人聞いてくれないから。

「トギ、私と一緒に来るかい」
そう言って立ち上がると、その人は私に向かって長い腕を伸ばす。
「父上から学んだ事が、たくさんあるだろう。私と一緒に、もう少しだけ学んでみないか。もしもトギが嫌でなければ」

私よりずっと高いところにいるから、白い花の雨は最初にこの人の頭の上に降って来る。
そして黒い長い髪を滑って、風に乗って飛んでいく。
飛ばされなかった花の雨は、広い肩に乗って来る。
そしてこっちに向けて伸ばした長い腕を伝って、ひらりと地面に落ちていく。

「来るかい」

抱えて胸に引き寄せた両膝の間から、立ち上がったその人の、差し出された手を見た。
長い言葉を唇だけで話しても、どうせ誰も聞いてくれない。
首を振るか、頷くか。どうせ唇で話したって声は出ないんだから。

花になりたい。 草になりたい。虫でもいいから何も食べなくて済むものに。

その人が差し出した手を、どれくらい見ていただろう。
もう父さんもいない。母さんもいない。口のきけない小娘が一人で生きて行くには、まだ誰かに助けてもらわないといけない。

まるで根競べみたい。何も話せず座り込んだ私と、立ち上がったその背の高い人は、互いの目を見つめ合った。

 

*****

 

静かな午後の陽が薬室の格子窓から幾本もの筋となり射していた。
その筋は規則正しく、薬室の棚に並んだ紙包の上に線を描く。

悍ましい。見なくとも匂いだけで判る。その中身が何であるのか。
私とて、伊達に元や天竺でまで医の修業を積んで来た訳ではない。

天竺には強力な毒を持つ蛇がおり、元には毒魚や毒虫が多くいた。
そして何処であれ、必ず毒を持つ草や花が彼方此方に生えていた。

どの師も必ず言ったものだ。ビン、毒を知らなくてはならない。そしてその毒を絶対に用いてはならない。
使い方によっては薬になる。どうすれば薬になるのか学ぶこと。用いた後に間違ったでは通用しないのだ。

そして今のこの薬室の紙包の中にあるのは毒だ。
ありとあらゆる毒。動物毒、毒草、そして毒石。
確かに上手く扱えば薬になる。修治さえ確実に行えば。

煨、煆、炮、炒、炙、烘烤、焙。
洗、漂、泡、潤。水飛。蒸、煮、茹、淬。
発芽、発酵、製霜。
それでも紙包の中に眠っているのは、未だ修治前の明らかな毒。

光射す格子窓の向こうの薬園を、憂鬱な視線で眺め遣る。
その半分には見事な薬草が、そして残り半分には毒草が。
その毒草の青々と茂る畑で一人の少女が草を摘んでいた。

「何故あんな年端もゆかぬ子に、毒草を摘ませたりなさるのです。誤って毒草の汁にでも触れれば」
押し殺した声で囁いた私に向けて、薬師は無表情に言った。
「あの子は摘んだ程度で触れる毒には、びくともしません」
「・・・どういう事です」

大の男が触れても全身が腫れ上がるような猛毒もあり、蛇や魚の毒であればそのまま体が痺れ死ぬ事もある。
毒の石なら砕いて燃やせば、息が止まってやはり死ぬ。
草であっても間違えて口に入れば口中から内腑が爛れ、胃の腑に入れば体中に毒が廻る。
指に触れただけでも指の節が曲がらなくなるほどに膨れ、高熱に魘される事があるのだ。

この男がそれを知らぬ筈がない。
開京市井で最も高名な薬師だと、他のどの薬師も口を揃えて言っていたのだから。
その娘だから毒草の扱いに慣れていると言う意味だろうか。
幼くても誤って触れたりはしないと言う意味なのだろうか。

此処から離れすぎていて、その娘の小さな手許どころか地に屈んだ肩から下は草花に隠れてほぼ見えない。
確かに私が訪れてよりの四半刻、毒草を摘み続けている娘が具合の悪くなる様子はなさそうだった。
しかしそれなら口振りが妙だ。
毒草の扱いに慣れているのと、毒に触れてもびくともせぬでは全く意味が違う。

「びくともせぬ事はないでしょう」
「あの子はしないのです、チャン御医」
私の反論に薬師は頑として首を横に振る。

「そんな無茶な話は聞いた事がない」
「・・・チャン御医」
しつこい追及に私を見た薬師の顔に、窓からの光の縞が掛かる。
「毒を以て毒を制す。無論私が言うまでもなく、御医ならよく御存じでしょうが」
「・・・ええ。確かに」

以毒制毒。医の基本の一つではある。但し机上の空論でもある。
毒に侵された者は体の内も外も病んでいる。内腑の動きも気水血も弱り切っている。
それ以上に強い毒など与えようものなら強さに負け、ほとんどの患者が命を縮める。
高名な薬師が、それを知らぬ筈はない。

凝視する私の目を避けるよう、薬師は窓外の小さな姿を見たまま小さな声で呟いた。

「あの娘こそまさに生きる以毒制毒。私がそう作ったのですから」

 

 

 

 

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