白々しい蛍光灯が光る店の中。待ってた彼が手を上げた。
ああ、夢だ。だってあの時別れたままの、まだレジデントの白衣を着てる。
いくら能無しの男だって、待ち合わせの店に白衣姿はナシよね?
第一あれから何年たった?今もレジデントだったら笑っちゃう。
「お待たせ」
「ほんとに待たせるなよ、忙しいのに時間作って来てるんだ」
あの頃のままのぞんざいな口調。だけどそれに謝るユ・ウンスはもういないのよ。
「なら来なきゃ良かったのに。呼んだのはそっちですよね?」
狭いテーブルで足を組む。低い天板に膝がぶつかって、思わず舌打ちする。
「疲れた。ほんと何様ですか?こんなとこまで走らせて」
走って乱れてるだろう髪を、片手で肩から後ろに放り投げる。
三つ編みだったはずのその髪は、いつもみたいにふわりと舞った。
ああ、ダメ。髪は大切に扱わないと、あの人が悲しむ。
私の髪を私以上に大切にして、すぐに触りたがる人。
私がうっかりかきむしると、俺の髪を大切にって怒る人。
どうしてだろう。一緒にいるのにもう逢いたい。逢って、顔を見て、甘えて怒って訴えたい。
聞いてよヨンア、すごくイヤな夢を見たの。だから抱きしめて。
今こうしてあなたと一緒にいられるのは夢じゃないって教えて。
夢みたいなあなたの腕の中が、今の私の現実だって、もう一度。
「そう怒るなってー」
あの頃みたいな猫撫で声で、目の前の男が言った。あの頃なら絶対言わなかった言葉を。
「俺だってちゃんと謝りたかったよ。結婚してもやっぱり駄目だ。
金で結ばれた縁は、力関係がどうしてもさあ。女房は何かっちゃあすぐ実家が、パパが、とか言い出すし。
夫婦喧嘩もまともに出来ないよ」
「あらー、お気の毒。でもお金が欲しいなら、ガマンしないと」
「まあ美人で性格も良ければ我慢出来るけどな。やっぱりお前が良かったよ。なあウンス」
ああ、気持ち悪い。本気で気持ち悪いわ。
露骨に顔に出してるはずなのに、自分の見たい部分しか見ないのは、相変わらずこの男の専売特許らしい。
あの頃もそうだった。私が徹夜して目の下に真っ黒いクマを作ってボロボロの状態でレポートを持ってっても、返って来るのは
「サンキュー」
の一言だけ。
そんな男と何年も一緒にいた、可哀想で惨めなユ・ウンス。
でもそんな可哀想で惨めな自分を作ってたのは、自分自身の選択。
もう二度としないわ。可哀想にも惨めにもならない。だってあの人が教えてくれた。
自分を犠牲にするんじゃない。自分がしなきゃいけない事をするのと、犠牲にするのとは違う。
あの人が、そしてみんなが教えてくれた。
誰もがみんな一生懸命に生きてる。自分より大切な何かを、誰かを守る為に全力で。
私はしたい事をする。
言いたい事を言うし、笑いたければ笑うし、泣きたければ泣くし、怒りたければ怒る。
帰りたいから必死で戻ったし、いたいからあなたの横にいる。
誰も強制出来ないし、そんな事されても聞いたりしない。
例えあなたが追っ払っても、私は一生あなたと一緒にいたい。
そして次も、その次も、その次もあなたと逢いたいから。
見つけて、呼んで欲しいから。
あなた以外の人とは、もう逢いたくないから。
会ったって、時間の無駄にしか思えないから。
二度とひとりにしないで。ひとりにならないで。
いつも、いつでも一緒にいて。あなたを愛させて。
ああ、逢いたいな。どうして私はこんな男と一緒にいるの?
夢の中って分かっていても、時間がもったいない。
早く起きて、おはようって抱きしめて、熱を測って脈診したい。
待っててねヨンア、すぐ戻る。この下らない会合が終わったら。
心ここにあらずの私に、男の手が伸びて来る。ギョッとして相手を睨むと、男は頭を下げた。
「本当にごめん。お前をあんな風に傷つけて。整形外科医になったって聞いたよ。
うちの病院、人手が足りなくてさ。もし良かったら来てくれないか」
「あのねぇ・・・」
学生時代のいい思い出。それでも呆れて物が言えない。
純粋で世間知らずな田舎娘が、初めて好きになった男。
恋だったけど愛じゃなかった。そして恋に恋してたけど、この男を好きだったかは思い出せない。
ただ今はハッキリ分かる。この男と出会ってひとつ賢くなった。
男は大切な女性の為なら、何もかも乗り越える強さを持ってる。
女も大切な男性の為なら、何もかも捨てられる覚悟を持ってる。
貨幣価値なんて時代で変わる。家は・・・あの人のお陰で立派な家に住めた。
車なんて存在しないし、ブランドバッグじゃなくたってポジャギがあれば事足りる。
本当の男なら、本当の女なら、心と体一つあれば生きていける。
そこに技能が加わればもっといいわ。相手を助けてあげられる。
この男の事はともかく、ドクターになれて良かった。韓医学の知識があればもっと良かったんだけどなあ。
夢の中で、ちょっとこの世界に留学できないかしら。夢留学。やだ、理想的じゃない?無料よね?
本当に当時の中国・・・元まで留学に行くのは大変だし、あの人を1人だけで残して行きたくないし。
ああ、でも夢だからこんな都合よく行くのよねえ。そして夢だから、この男も謝罪してるんだろうし。
「私、今とっても幸せなんです」
夢でもこれだけはちゃんと言っておかなきゃ。
噛み終わったチューインガムを捨てるみたいに捨てられたあの時、言えなかった言葉だけは。
「すごく愛している人がいるんです。すごく愛されてます。
毎朝、起きてくれてありがとうって思う、寝る時に明日逢おうねって思う、そんな人。
夢でも逢いたいんです。だからもう、あなたには夢でも逢いたくない。そんな暇ないんです」
夢の中だけど、これだけは言いたい。
自分の納得できる別れ方をしたいから。
それが過去の、可哀想で惨めな選択をした自分への最後のお別れ。
「幸せなんです。こんなに幸せになったらバチが当たるんじゃないかって思うくらい。
でもあの人に悲しいことがあるのは困るから、そのバチは私に当てて下さいって、神さまにお願いしたいくらい。
逢えないと悲しいんです。だからもう会いに来ません。だからもう来ないで下さい。
あの頃は本当にありがとうございました。どうかお元気で。さようなら」
バイバイ、あの頃のユ・ウンス。
バイバイ、ひとつ賢くしてくれた人。
最後に立ち上がって、一度だけ頭を下げる。
目の前の男じゃなく、不器用で愚かだったと教えてくれた何かに。
「ヒョヌ先輩」

皆さまのぽちっとが励みです。
お楽しみ頂けたときは、押して頂けたら嬉しいです。
にほんブログ村
今日もクリックありがとうございます。
コメントを残す