2016 再開祭 | 玉散氷刃・廿捌(終)

 

 

二人で並ぶ典医寺の裏庭の景色は、まるで映画のようだった。
枝には明るい新緑。それを薄く透かす光。聞こえて来る小鳥の声。
けれどそんな光景の中、チェ・ヨンの表情は硬く顔色は優れない。

向かい合い口を閉ざしたままのチェ・ヨンを、ウンスは辛抱強く待った。
誘拐の件では自分の油断があった事も否定は出来ない。
確かに結果としてオク公卿や弟が営利目的やチェ・ヨン、王や王妃の敵でなかったから、気分は楽だった。
そしてチェ・ヨンや迂達赤が迅速に動いたからこそ、無事で帰れた。

けれどどんな理由であれ、チェ・ヨンには耐え難いだろうという事もウンスは判っていた。
私に何が起きようと結局自分を責める人だ。だから私は気を付けなきゃいけなかったのに。

それでも昨夜チェ・ヨンが家に帰って来なかったのは、自分への無言の抗議だと思った。
オク公卿が誘拐を計画しておきながら、幼少時のトラウマが原因だから許せと頼んだ事。

許せないだろう。納得も出来ないに違いない。
双城総管府でケガを負ったイ・ソンゲの治療を拒んだ時、ウンスがチェ・ヨンに言われたように。
後悔するだろう。自分自身を呪うかもしれない。
それでも最終的にそれがベストな答だと自信がある。自分にとってではなく、相手にとって。

それを伝えたかった。心から謝りたかった。
心配をかけてごめんなさいと。信念を曲げてくれてありがとうと。
あなたは良い事をしたんだと。私を信じて欲しい、いつか判ると。

だから待った。
どんなに喧嘩をしても一緒のベッドで眠ろうと結婚前に約束したのに、チェ・ヨンは戻って来なかった。

そして今朝。 結局一晩家を守ってくれたテマンと一緒に登殿するなり、典医寺に呼び出しが来た。
キム侍医と一緒に宣任殿まで出かけてみれば、王の前であんな騒ぎになった。

チェ・ヨンが一晩中根回しの為に動いていたのが初めて理解出来たが、それでもウンスの中に不満は残る。

言ってくれれば、一緒にいたのに。迂達赤兵舎なりどこなり、安全な場所で待っていたのに。
そうすればチェ・ヨンの根回しが終わった後に、話も出来た。
きちんと話せばこんなモヤモヤした気分もきっと晴れるのに。

チェ・ヨンはまだ口を開かない。明るい光の中に立ったままで、自分の方を見ようともしない。
沈黙は苦手だ。口数の少ない方じゃない。ましてチェ・ヨンとはまだちゃんと話してもいない。

「ヨンア、ねえ。聞いてくれる?」
本来なら先にチェ・ヨンが口を開くのを待つべきだと判ってはいるけれど、我慢しきれずウンスは言った。
「あなたに心配をかけた事は分かってる。でも私も誘拐されるとは思ってなくて。
公卿の弟さんは、確かに私を袋には詰めたけど」

チェ・ヨンの顔色が変わるのを見て、ウンスは慌てて首も両手も、振れる部分を全部振って全身で否定する。
「乱暴にはしなかったわ。暴力は振るわれてない。ほんとよ?ほらどこにも傷ひとつないでしょ?!」
そう言いながら医官服の袖を捲れるところまで捲り、白い腕を剥き出しにしてチェ・ヨンに向かって見せる。

「それにお屋敷でだって、脅されたりしなかった。お客さんとして丁重に扱ってくれたと思うわ。
食事やお茶は出なかったけど」

チェ・ヨンの眉間の縦ジワが深くなったのを見て、ウンスは困って溜息をついた。
どうやらどんな言葉も状況説明も、チェ・ヨンにとっては気に喰わないらしい。
「言いたいのはね、ヨンア。私の判断にもミスがあったってこと。告知の義務があるにしろ、言われた側の受け取り方もある。
先の世界でも治療方針やその内容で、患者と揉める事はいろいろあったもの。でも避ける訳にはいかないの。これからもね」

ウンスの懸命の説得に、チェ・ヨンはようやく小さく頷いた。
話を聞いてくれる気はあるのだろうと、ウンスは言葉を続ける。

「先の世界では、インターネッ・・・うーんと、知りたい事を何でも即、その場で教えてくれる便利な機械がある。
セカ・・・私じゃない、別の医者に診察を受けて、どっちの治療が良いか選んだりも出来るのよ。
でも高麗にはそういうことはないでしょ?私が言った事が、患者さんにとっては世界の全てになっちゃうのよ。
生まれて来る赤ちゃんにどこか問題があるかも、って言われたら、親なら誰でも気分が落ち込むわ。
ましてオク公卿は、母親とうまく行ってなかったし。昨日の典医寺の話、あなたも聞いてたんでしょ?」

ウンスの声にチェ・ヨンはもう一度小さく頷いた。
「だからああいう決断をしてくれたのよね?」
畳みかけるウンスにチェ・ヨンは渋々と言った顔で
「・・・それでも」
とだけ、低い声で言った。

「分かってる。それでも納得はできない。私も同じだった。双城でケガをしたイ・ソンゲを治療しろって、あなたに言われた時。
死んじゃえばいいと思ったわ。人間としても、医者としても最低だけど、そんなの知った事かって。
でもそれは私がケガを負わせたんじゃないからよ。戦争だから仕方ないって思える。
だけどあなたがオク公卿を傷つけたり、まして切ったりするのは絶対にイヤだったの」

ウンスの声にチェ・ヨンは頷く。判っているのだと。
ウンスが何を思っているか、誰を想っているか、改めて口にせずでも誰より判っていると。

「あなたは本当に命の大切さを知ってる人だから、私の為にそんな事をしたら、赤ちゃんと奥さんに対して一生罪悪感を持つと思う。
それが本当にイヤだったの」

ウンスの声にチェ・ヨンは頷き返さず、ただもう一度空を見上げた。そしてその高い枝の先の緑の葉を。

「医者なんてそんなものよ。でも辞めたいとは思わない。感謝してる。この先も、万一何かあった時を考えると。
叔母様や迂達赤のみんなや王様や王妃媽媽や、手裏房の・・・あなたの大切な誰かに何かあった時、私にもできる事があるから。
他にくっついて来るものは、もう魚の尻尾みたいなものなの。食べられないけど、あるのは仕方ないじゃない?」

道化たウンスの声に、チェ・ヨンは力なく微笑んでみせる。
己の為ではない、ウンスが見たいと判っているから。

互いの事をだけ思い遣って、己らは何処まで行くのだろうと思う。
相手が傷つくのを判っているのに、より大きな善の為に、乗り超えろと無理を言う。

チェ・ヨンの溜息が呼んだか、裏庭の木立にまた静かな風が吹く。

「だからヨンア」
ウンスはチェ・ヨンの大きな手を握り締めて引くと、典医寺への道を戻り出す。
抵抗する事もなくその手に従って歩き始めたチェ・ヨンを仰ぎ見て、ウンスの瞳が三日月になった。
「ご飯食べよう?私、昨日も食べてないのよ」
不満げなウンスの声にチェ・ヨンの歩がぴたりと止まる。

「何故」
「だって、あなたが帰って来たら一緒に食べようと思って!一人で食べたくないんだもの」
「丸一日以上でしょう」
「そうよ!お腹空き過ぎて倒れそうだわ」

何という事だ。
チェ・ヨンは己を引いていた掌を握り返すと、冬の間に荒れた木立の足許に注意を払いウンスを引く。

これだから厭なのだ。俺の為なら何処までも我慢辛抱を重ねる方。
俺を待ち、俺を庇い、俺の為にだけ泣いて、俺の為だけに笑う方。

「・・・何が喰いたいですか」

答が判っているのに訊いてみる。
ウンスは明るく笑いながら今度は幼子のように手を引かれ、安堵の瞳でチェ・ヨンを見上げ
「おまんじゅう!」
と、仔犬のように吼えた。

 

*****

 

「大護軍」
出立の前日、迂達赤大門を叩いた来訪者を通した庭先。
向かい合うチェ・ヨンは太い息を吐く。

大した度胸だと褒めてやりたい程だ。
オク公卿は訪いを報せた門衛の隊員を始め、擦れ違う全員の刺すような視線の中をチェ・ヨンと並んで歩き、案内した庭先で足を止めた。
兵舎に招き入れなかったのは、其処ではもっと肩身が狭かろうと案じたチェ・ヨンの武士の情。

晴れ渡る空の許、吹く風はあの日よりも確かに強く、そして夏へと一歩ずつ近くなっている香がした。
見上げる庭の木枝の先には、あの日の頼りなく柔らかい若葉ではなく、色を濃くした葉が揺れていた。

「出立前にお会い出来て良かった。礼を伝えたかった。大護軍がどれ程怒っているかは判る。
私の為でなく妻子の、そして弟の為に一切を伏し義を曲げてくれた事も。本当に申し訳なかった」

こうして面と向かっても、話す事などない。
公卿の謝辞を右から左に、儀礼的にチェ・ヨンは告げた。
「わざわざの御来訪痛み入ります。では」
「大護軍!」

オク公卿は踵を返し去ろうとしたチェ・ヨンを呼び止める為に、背に触れようとした。その瞬間。
初夏の陽を映し、抜いた鬼剣の刃が眩しく耀いた。

切先を突き付けられたオク公卿は凄絶な光から目を逸らせず、息をするだけで咽喉を裂きそうな刃の近さに動きを止めた。

「赦した訳ではない」

チェ・ヨンはそれだけ言うと刃先を返し、鬼剣を鞘へ納め直した。
「二度とお会いせぬ事を祈っております」
「大護軍・・・」
「某は執念深い質で」

それだけ言うとチェ・ヨンは初夏の陽の中を再び歩き出した。
二度と残した来た公卿を振り返らずに。

振り返れば斬り捨てたくなる気持ちに嘘はない。
振り返らないのは男の為ではない。己の為。
そして誰より、己が斬れば己より心を痛める者の為。

初夏の陽が心地良い。
今日の昼餉はウンスを連れて、久々に開京の市井へ出ようかと考えながら。

 

 

【 2016 再開祭 | 玉散氷刃 ~ Fin ~ 】

 

 

 

 

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