酒楼を飛び出した勢いのまま開京大路を駆け抜ける男達の勢いに、通行人が驚き慌てて道を開ける。
「テマナ」
右脇に付く男の顔も見ず、チェ・ヨンが声だけで呼ぶ。
「は、はい大護軍!」
「迂達赤に戻りチュンソクへ報せろ。医仙はオク公卿の邸」
「はい!」
テマンは手近の塀に手を掛けるとよじ登り、屋根へ上がると瞬く間にそこから飛んで姿を消した。
大路でこれ程目立てば、最早隠れようもない。
後は刻との勝負だと、チェ・ヨンは駆けながら素早く周囲へ視線を投げる。
「トクマニ」
「はい大護軍!」
テマンが消え一人きりの従者になったトクマンは、チェ・ヨンに遅れを取らないよう全力で駆けながら声を返す。
「この辺りに丙の奴らがいる。探して全員オクの邸前に集めろ」
「判りました」
春の陽気か走り続けた所為か判らない汗でしとどになったトクマンはチェ・ヨンの声に頷くと、大路から脇道へ駆け込んで行った。
最初からこうすれば良かった。
ようやく一人、目的の道を目指して駆けながらチェ・ヨンは思う。
あの方を護りたいと思うなら、端からこうしていれば良かった。
オク公卿。
身重の妻を預け、その看病で幾夜も徹する面倒を掛けておきながら、もしあの方に仇為す積りなら。
チェ・ヨンは走りながら今一度、鬼剣の柄を確かめるように硬く握り締める。
妻が身重だろうと赤子が生まれようと、奴の出方次第だ。
畜生でないなら大切な赤子の為に、愚かな事を考えるな。
さもなくば無辜の赤子が、父なし子で生まれねばならぬ。
*****
「どういう、こと?」
状況が呑み込めず、ウンスは目の前で申し訳なさそうな顔のまま立っている患者の夫をじっと見た。
誘拐する時、部屋に侵入した男は確かにあの患者の夫の使いと言ったけれど、本当だとは思わなかった。
誘い出すための口実だと思ったのに。
医者という職業上、モンスターペイシェントには何度も遭遇している。
この夫もそんな類なのかと、ウンスは注意深く男から距離を取るように、部屋の中へ数歩下がる。
しかしどうやら謝罪の気持ちは本心らしい。オク公卿はウンスに向けて、頭を下げ小声で言った。
「医仙、手荒な真似を致しました。本当に申し訳ない」
ウンスを誘拐しおまけに袋に詰め、今の今まで無言だった誘拐実行犯の男が、続いて素直に頭を下げる。
「医仙様、全て私のした事です。本当に申し訳ありませんでした」
「申し訳ない申し訳ないって・・・!」
心臓外科医だった時はまだ理解が出来た。大切な人を失くせば、人間は誰だって取り乱す。
そのやりきれない悲しみや怒りが、執刀医に向けられる事はある。
どれだけ誠意を尽くし病態を正確に説明し、治療内容を伝え、その上で起きた事だと経緯を知らせたとしてもムリだ。
その理詰めの説明は、相手の感情論の前では無意味なのだ。だって人間だから。
そして整形外科医だった時は、本物のモンスターを何度も見た。
整形なんて生きるのに必要な施術でも、生命に関わるでもない。
全額自費治療、ただ自分の理想に近づき欲望を具現化する手段。
だからこそ厄介なのだ。わざわざ金を払って痛い思いをする分、患者の期待値は自然と高くなる。
このギプスが外れたら、包帯を取ったら、カテーテルを抜いたら次に鏡に映るのは、生まれ変わった理想の自分だと信じ込んで。
しかし実際鏡を見ても、写っているのはほとんど変わらない自分。
同じ手術を受けたのに、他人はキレイになり自分には効果がない。
失敗した。どうしてくれる。責任を取れ。訴えてやる。返金しろ。
そう怒鳴り込まれた事が一体何回あったか、思い出したくもない。
そのたびにウンスは医者の倫理観なんて放棄して、怒鳴り返してやりたくなったものだった。
本当に手術が失敗したなら、当然執刀した医者にも責任はある。
但しこれは手術の失敗ではなく、持って生まれた素材の限界だ。
豚肉をどれ程上手に調理しても、牛肉にはならない。こっちも人間だ、神の手を要求されても困るのだと。
けれど目の前にいるこの患者の夫は、そのどちらにも相当しない。
第一患者も胎児も生きているし、生かす為に自分が離れるべきではない。それくらい分かって当然なのに。
「あ、あの・・・確かに、奥様は目に見えてグングン元気にはなっていませんけど、それは妊娠の影響で。
私たちも出来る限りのことはしますし、無事に出産した後、本格的な治療をしましょう。だから今は」
ひとまず相手は男2人。頭を下げているとはいえ、何かあれば勝ち目はないと、ウンスは低姿勢で言ってみる。
隙を見つけて逃げるにしても、邸の中の右も左も分からない。逃げて捕まれば、事態はなおさら悪くなるだろう。
そう思いながら患者の夫に同意を求めるように
「今回のことは何か理由があったんでしょう?でも今はいいです。まずは奥様の出産を無事に迎えましょう?
そのためにも帰して下さい。もういつ生まれても不思議じゃないし、早産のリ・・・危険性も、なくはないです」
慎重に、でもフレンドリーに見えるように言うと、目の前の男は何故か苦し気に顔を歪めて首を振る。
ウンスは頭から血の気が引いた。帰さないって事?なんで?どうして?!
「医仙」
何よと怒鳴り返したいのを抑え
「はい」
頷いたウンスにオク公卿は言った。
「それは、困るのです」
「でも奥様の主治医は私です。私以上に奥様を的確に診療できる医者は」
「ですから困るのです」
男の言っている意味が分からない。私はここまで恨まれるような事を何かしたんだろうか?
妊娠中の病気の妻の元に戻したくないほどの恨みをかった?
怒鳴り込んで来るモンスターペイシェントは確かに面倒だけど、この男は何を考えてるのか分からない。
第一面倒なモンスターだって、誘拐したりまではしなかった。
戸惑うウンスを前に、オク公卿はその目を見ないように視線を逸らして言った。
春の陽射しで明るい部屋の中、冬の木枯らしのように軋んだ声で。
「今の妻が腹の中にいる子を生むのは、困るのです」

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