自分が何をしたのか、瞬時判らなかった。
先刻まで目移りしていたあの人の姿が目の前から消え、視界一面が揺れる水で覆われて、俺は初めて理解した。
ああ、この景色は夏の川遊びに似ている。
河原の石の上から息を止めて、二人で下の渓流に飛び込んだ時。
怖がって腰の引けるスンジュンを抱き締めて。
流れの早い川の真中に立って、二人でお互い繋いだ手の逆の手で鼻を摘まんで、せーので顔を突っ込んだ。
「わっ・・・若様!!」
「ちょっと、何を!」
ソンヨプとあの人の伴の男が、水桶に頭を突込んだ俺の肩を掴んで揺らすは、頭を上げさせようとするは。
大騒ぎする声が、水桶の中からも聞こえる。
そんなに騒ぐことじゃない。別に死ぬつもりはないし、第一桶に頭を突込んだくらいじゃ死ねる訳もない。
息をこらえ食い縛る口許から、ぷくぷく小さな泡が上がる。
桶の中では自分の心の臓の音も少しだけ収まった気がした。
良いぞ。この調子でゆっくり二十数えて頭を上げよう。
そう決めて数えだす。一、二、三・・・・・・
十五まで数えたら、鼻で思い切り息を吸ってしまった。
「・・・っブヮッ!!」
妙な声を吐き噎せ返りながら慌てて顔を上げると、またあの人と目が合った。
途端に桶の中では収まりかけていた心の臓が、いきなりどん、と跳ね回りだす。
「ッゲホ、ゲホッ・・・あ、あの」
「・・・ほんとに、大丈夫ですか?」
咳を抑えて何か言おうとしたところで、怪訝な声で先手を打たれてしまった。
その丸い瞳。きっと呆れてるんだろう。俺だってそうだ。
まさか自分が往来の真中で、水桶に頭を突っ込むなんて。
「どうしちゃったんですか、若様!」
前髪から盛大に垂れる滴の向こうで、ソンヨプが唾を飛ばしながら強張った顔で尋ねた。
「・・・頭を冷やしたんだよ」
「冷えたのは若様の頭じゃなく、こっちの肝ですよ!」
尤もな説教を受けながら俺は両手で顔の水を拭って、濡れ落ちた前髪を絞ってから掻き上げた。
けれどあの人とそして伴の男はじっと固まったままで、俺を見ていた。唖然とした顔で、ぽかんと口を開けて。
「あの」
俺の呼び掛けに、伴の男が警戒するように、あの人の横に半歩近付いた。
そこに立つのは止めて欲しい、体が大きいうえに、多分皇宮の兵なんだろう。
えらく立派な鎧を着てるから、あの人の姿がその鎧の向こうに隠れてしまう。
それでもそこからちょこんとこっちへ傾けた顔。
その瞳を見ながら俺はせめて誠意が伝わるように、懸命に身を乗り出して言った。
「俺は・・・自分は玉 澤演と申します。差支えなければ、お名前を伺っても良いですか」
「テギョンさん?私はウ」
「医仙!」
ああ、なんて無粋な男だろう。
こちらが名乗って、この人も笑って、互いに自己紹介をしているだけだったのに。
「おやめ下さい、どこの誰とも判らない男に御名前など。俺が後で大護軍に」
「どうして?別にどっかについてくわけじゃないわ。第一、ケガさせたのはこっちなのよ?あの人だって」
「どこの誰とも判らないだと!」
・・・俺はあくまでも、自己紹介をしたかっただけで。
この不思議な瞳を持つ美しい人を、もっと知りたかっただけで。
別に怪我を負わされたなんて考えもしなかったし、ましてやそれを恩に着せる気なんてこれっぽっちもない。
この人の名前を知りたかったから名乗っただけで、何故こんなに大騒ぎになってしまうんだ。
俺は何も言っていないのに、伴の男の言い草で額に青筋を浮かべたソンヨプが、いきなり椅子を蹴り立った。
「何と失礼な!若様は西京一の貴族玉家の嫡男、澤演様だ!秋から国子監の御入学も決まり、上京されている。
一介の兵が軽々しくどこの誰かなどと、口に出来る方じゃない!」
「ソンヨプ!止めろって!!」
「一介の兵だと」
そりゃあそうだ、こんな物言いをされれば当然腹も立つだろう。
この方の伴の男も顔を真っ赤にすると、先のソンヨプに負けない勢いでこの人を完全に背中に隠し、俺達の・・・正しくはソンヨプの目の前に立ちはだかった。
「皇居近衛 迂達赤乙組副組長、オ・トクマンだ!文句があるなら皇宮迂達赤兵舎まで来い!!
こちらの方は王様直々に命じられた典医寺医仙。それ以上の事を貴様らが知る必要などない!!」
「トクマン君ってば!」
あの人がその大きな男の背から、慌てて声を掛ける。
「そんなに怒鳴らないで、ちゃんと話を」
「医仙は黙って下さい!俺が馬鹿にされるのは構いません、でも迂達赤を馬鹿にするのは、俺の大護軍を馬鹿にするって事です!
それだけは黙ってられません!!」
一体何故、こんなややこしい事になっちゃうんだよ。
俺はただあの背の後ろに隠れた人の事を知りたいだけなのに。
ギリギリと険悪な目で睨みあうソンヨプと、近衛迂達赤のトクマンと名乗る男。
互いに前を塞がれて、それぞれの背後で俺とあの人の深い溜息が同時に漏れた。

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トクマン君。
偉い!良く言ったよ!
ヨンを馬鹿にされるのは
我慢できないものね。
でも…なんでこんなに
ややこしくなったの(^-^;
ヨンが知ったら……恐い…(–;)
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男トクマン 迂達赤の名誉に懸けて!
いつもの調子で ウンスの名を言っちゃうか
ドキドキしちゃった。
さすがに とまった。
どうして こうなっちゃう?
それは 相性があわないからかしら?
ウンスに悪い虫がつかないように
某御主人さまの ノロイかも(笑)
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トクマン君、何だかウルウルしちゃいましたよー。
男らしくて、頼もしいんだもの。
たとえ相手には、ばかにしているつもりはないかもしれない。
でも、名前だけでなく、自分の方の立場を口にする男側に対しては、トクマン君も堪忍袋が切れそうになったのよね。
だって、我らが大護軍チェ・ヨンがいる近衛部隊
を軽~く扱われたのだもの。
迂達赤なんだからね。