「あ、ヒドさ」
出て行く背に声を掛けるあなたを、逃がさないよう抱き直す。
「ヒドは良いから」
「よくないでしょ、せっかく一緒に」
「良いから」
ほんの僅かの間だけだ。奴は判っている。そして俺も判っている。
酒の勢いに任せほんのひと時、まるで沙鐘を返したようあの頃に戻れた気がした。
奴がいて、皆の代わりにあなたがいて、気を張らず言いたい事を言い合って。
笑い合って例え拗ねても、誰も責めたりしなかった。
奴も判っていたからあんな風に聞き、そして受け流してくれた。
あれは俺がよく知るヒドだ。懐かしい兄貴で、そして家族だ。
たまには良いよな。
鎧を脱いで剣を手放して、少しなら本音で向き合っても許されるよな。
ヒョンなら許してくれるよな。
そしてこの方に、ほんの少しだけなら愚痴って良いのだろうか。
どれだけ酔っても、酒樽に浸かったように頭の先まで酔いに満たされていても、最後の矜持が邪魔をする。
情けない男だと思われたくない。
泣き言だらけのだらしない奴と、落胆だけはさせたくない。
いつでも頼れると、誰より安心出来ると思われたい。
本当に思う。嘘じゃない。それは俺にしか出来ない。
酔い潰れても素面でも、必ずあなただけは護りたい。
「ヨンア、ひどい」
「・・・は?」
あなたのその声に、酔いが一気に醒める。
潺のように酔いが引く音が聞こえる程だ。
爛酔の醜態を晒した事か。ヒドを追い出した事か。良いからと言ったからか。
突然今宵の全てがはっきり思い出され、必死に声の理由を探す。
そしてあなたは唇を尖らせ、眸を泳がせる俺を睨んだ。
「ヒドさんにばっかり」
「ばっかり・・・」
「ヒドさんにばっかり甘えてるじゃない!」
がちゃん。
あなたの叫び声と同時に扉外から重い音が響いた。
どうやら表で心配していた耳にも、今の声は届いたらしい。
恐らく握って出た酒瓶を落として割った音だろう。
あの黒鉄手甲の手で握り潰した音でない事を祈る。
しかしその音には気付かぬのか。
あなたは抱き竦められたまま俺の片脚で纏められていた足を必死で解くと、呼びもせぬのにこの片膝の中にもぐり込んだ。
そして俺の胴に細い腕を絡めて巻き付け、鳶色の瞳が見上げる。
「私がどうこう言ったけど、あなたの方がずっとひどいじゃない。私もいるのにヒドさんとばっかり話してるし。甘えてるし。
私じゃイヤなの?私にはあんな風に甘えてもらえたことない」
「そんな事は」
「そんな事は何よ。最後は可愛かったから許すけど」
この脇腹を確かめるように静かに撫でて、その瞳に隠しきれない不安の色が滲む
「本当に気のせい?痛くない?ちょっとだけ深呼吸してみて」
先刻まで酔いと苛立ちに占められた心がその一言で、その視線で、罪悪感で満たされてしまう。
「痛くない」
腹と背を大きく動かし、大袈裟なくらいの深呼吸をして見せる。
どれだけ調子に乗っても仮病は駄目だ。この方には通用しない。
判っていた筈なのに酔いに邪魔された。いや、それすら言い訳だ。
判っていたんだ、痛いと言えばこの方は絶対に俺の許に駆けつけて来てくれる。俺の事だけ見てくれると。
酔いなど言い訳にならん。俺は最低だ。
「本当に、痛くない」
それでも衣の上から脇腹に耳を当てて慎重に音を確かめ、この方は
「ちょっとウェ・・・体、ひねってみて」
「肩だけ、少し回してみてくれる?」
「咳払い、えへん、って強めにできる?」
そんな風に質問攻めにした後に、ようやく納得したように頷いてくれた。
「うん。大丈夫。でも肋骨骨折は、本当に軽度の外力でも発生することがあるから、ぶつけたくらいって油断しちゃダメなのよ」
「・・・済まん」
本当に最低な行いだったから、ただ詫びるしかない。
「何でもないなら謝ることないわ。もし骨折でも、謝る理由なんてなーんにもないじゃない。変なヨンア」
笑いながら言われれば尚更に心が痛む。
「済まん、本当に」
「私はうれしかった。私にしか出来ないことがあるって思えたわ。あなたとヒドさんがどれだけ仲良しで、私を仲間外れにしてもね」
「イムジャ」
「ウソよ。2人が仲良くて、あなたのあんな姿を見られて、本当に嬉しかった。ただちょっと・・・」
そこまで言って下を向いてしまった白い頬を、まだ酔いの熱で火照る両掌で包んで上向かせる。
そうでもしないと意地張りなあなたの、大切な声を見失う。
「・・・・・・ちょっと変なヤキモチ焼いただけ。2人にしか分からない思い出や、過ごしてきた時間があるから、あなたもあんな風に甘えてるんだなあって」
この離れは何故こんなに薄暗いんだ。
心許ない油灯の中では、満足に確かめる事が出来ん。
告白の後の今のあなたの、何より見たいその笑顔を。
今宵は最初から最後までこうして腹を立てる定めなのか。
そんな俺を残し、この方はいきなり膝の中から立ち上がる。
「ヒドさん呼んで来る!」
照れているのは判っている。しかし選りによって何故今だ。
受けた告白の余韻に、ほんの一時共に浸ってはいかんのか。
茫然と座り込む俺の前、あなたは離れの扉へ寄るとそれを押した。
「あれ?」
二度、三度。体を預け寄り掛かって圧しても、それは軋むだけで確かに一向に開かない。
「ヨンアどうしよう、開かない」
そんな妙な処にまで気を廻すのは、俺の知るヒョンらしくはない。
それでも良いんだ。こうして互いに判っているから。
「ヒドさん、ヒドさーん!聞こえますか?」
あなたは扉表を拳で叩き、大声で外へ呼び掛ける。
俺はその声に立ち上がり、あなたの横へ歩み寄る。
床にしゃがみ戸板に耳を当てると、その一枚向こうに気配がある。
「どうしよう、ヒドさんが締め出されちゃったら、この寒さじゃ」
「開きます」
「だってこっちから開かないのに」
「外からは開きます」
「まさか、つっかえ棒とか?」
・・・なかなか勘が鋭くなってきた。俺も鍛えた甲斐がある。
「さあ」
曖昧に首を捻って誤魔化すが、この方も此度は後に退かなかった。
突然衣の裾を翻したと思ったら、片足を振り上げると目の前の扉を勢い良く蹴り飛ばす。
渾身の力を籠めたそのひと蹴りを止める間もなかった。
まさかこの方が、俺の脛だけではなく扉まで蹴るとは。
以前皇宮でこの方に嘘を吐かせた上に蹴られた、厭な記憶が蘇る。
その蹴りの物凄い音に、扉向うの気配も動く。
「イムジャ!」
「開けなきゃ蹴り破りますよ!早く入って来て下さい!」
どうやらこの方が本気だと知ったか即座に扉は開かれ、其処からヒドが顔を覗かせる。
「何だ、今の音は」
「この方が扉を蹴った」
「何でもいいから早く入って下さい!風邪ひきます!」
「・・・女人が蹴るのか、戸板を」
「男尊女卑はやめて下さいね?男が出来ることは女にも出来ます。それよりまず、医者として言いますけど」
憤怒の形相に俺もヒドも口を閉ざし、振り上げられた細い指を凝視する。
その指先で離れの床を示し、この方はきっぱり言い放った。
「火鉢に当たってあったまって。その後はご飯をしっかり食べて。その後は」
俺とヒドを順に睨み、この方は突然三日月の瞳の笑みを浮かべる。
「とことん付き合ってもらいます。私が酔っぱらうまでね?
言っときますけど私も天界で鍛えてるから、そう簡単にはつぶれませんよ。2人とも覚悟してね!」
その笑み。明るい声。だから心が騒めいて、一時も眸を離す訳にいかない。
俺以外の男の前でこんな風に笑い、そしてこんな風に話すから。
「すみませーん、お酒の追加、お願いしまーーす!!」
蹴り破られるのを逃れた扉を開け、あなたは表に向けて大きな声で言った。
声に応えて離れの向こうから、はーいと酒母の声が戻る。
「ヨンア」
女人たちの遣り取りの隙間、低い声でヒドが呼ぶ。
眸で問えば、奴は心底うんざりした顔で首を振り
「誰の心配をしても構わんが」
そう言って戸口のあの方の背を顎で指す。
「俺は有り得ん。お前の惚れ抜いた女人でなければ、今頃とうに斬り捨てている。喧しいは、生意気だは」
確かに今はそうだろう。そして俺もそうだった。気付かない振りをした。
眸が先に捜し、耳が先に聳ち、足が先に駆け出している事に。
「お前が妬くほど良い女とは」
「聞こえてますよ、ヒドさん!」
あなたは戸口で振り向くと、小さな両手を腰に当てた。そして笑いながら
「恋愛はそれでいいんです。私の悪口言わないで。ヒドさんに吹き込まれたら、この人は素直だから本気にしちゃうでしょ!」
この眸を見上げる、笑いで誤魔化し損ねた不安げな鳶色の瞳。
そうだ。誰もこの方を見なければ良い。誰も気付かなければ良い。
知らなければ最高だ。この方がどれ程良い女なのか。
その瞳を見つめ返す視線を確かめ、ヒドは呆れ果てた息を吐く。
「まあ、瓜を逆さに喰うも好みだと言うしな」
私は瓜ですか、そんな風に盾突くこの方を今宵は一切無視する事に決めたらしい。
ヒドは無言で円卓に戻ると、俺に向けて卓上の椀を差し出した。
「とことん付き合えよ、ヨンア」
「ああ」
素直に差し出された椀を受けようと腕を伸ばす俺、そしてヒドとを比べ見て
「ほら!だから言ったのに、やっぱりヒドさんばっかり!!」
この方は怒ったように円卓へ駆け寄って来ると、俺達の二本の腕の間に無理矢理小さな体を捻じ込む。
「女性だけじゃなく男性もライバルだなんて、一瞬もリラックス出来ないじゃない」
天界の言の葉の呟きに、俺達は眸を見交わして同時に首を傾げた。
【 2016 再開祭 | 一酔千日 ~ Fin ~ 】

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ウンスさんとヨンとヒドさんシリーズ、好きだなあ~(*^_^*)。
とっても楽しくなります。ウンスみたいな人には、二人ともかなわないのよね!