2016再開祭 | 茉莉花・廿参

 

 

「琴珠様」

遠くで聞こえる呼び声に、クムジュは身を隠そうと立ち並ぶ庭木の奥へ入り込む。
枝に引掛かった絹衣を無理に手繰り寄せると、悲鳴のような音と共に衣が裂けた。
高価な衣が裂けたことより音のせいで自分の居場所がばれそうで、地面に小さく体を丸める。
その拍子に触れた下草の刺々しい縁で、クムジュの手の指先が切れた。

「琴珠様、どこにおいでですか」

私が悪いんじゃない。私の言う事を聞かない使用人が悪いんだ。
クムジュは体を丸め、その場で息をひそめた。
先刻、厨で大暴れをした。
調理台の上にあった貴重な調味料を全て床に叩き落とし、止めようとした雑司を力一杯突き飛ばした。
突き飛ばした拍子に、熱い油の鍋がひっくり返った気がする。
そしてその油が近くにいた奴婢にかかった気がするけれど、それは自分の与り知らない事だ。
よろけた雑司が悪いし、避けない奴婢が悪い。自分の言う事を聞かなかった調理番が一番悪い。

私はただ油蜜菓が食べたかっただけなのに、お正月じゃないから作れないなんて。
お父上に言ってやる。言いつけて家を追い出してやる。
クムジュはそう考えながら庭の端、塀に沿って体を丸め腰を落として歩いて行った。

もう呼び声は聞こえない。
諦めたのだろうと安心して、クムジュはようやく縮めていた体を伸ばす。
何故たかが使用人の呼び声で、不便な歩き方をさせられるのかと腹を立てながら。

家人もそれほど暇ではない。熟すべき仕事は山ほどある。
雇われ口の我儘な娘の隠れ鬼に付き合う物好きはいない。
愛されていないから探されない。いてもいなくても構わないから。
そんな事も判らない子供はようやく得たと勘違いした自由に伸びをして、塀の外を眺めようとした。
小さな背でうんとつま先立ちをしても、高い塀の外は全く見えない。

周囲を見渡し適当な大きな石を見つけると、その上によじ登る。
そこに石がある事のおかしさにすら気付かない。
そんなところに石があれば、外部から塀を超えて邸内への出入りを容易にしているのに。
夜盗や押し込みに向けて、裏門の閂を開けているようなものだ。

屋敷を、そこにいる人間を気遣っていないから見過ごしている。
庭から見る景観に邪魔がなければ、それで良いと思われている。
内幕がどうであろうと自分達には関係ないと見捨てられている。
そう考えられない幼い子供は、ただ嬉しさにそこへよじ登った。
そこでやっと塀の向こうの景色が見えた。

大勢の人々が行き交う開京の大路。
通り向うには従姉の敬姫の屋敷の、一際壮麗な瓦屋根の端も見える。
クムジュは胸を躍らせて、そんな景色を夢中で眺めた。
いつもの部屋の窓からとは全く違う、広々と、生き生きとした景色。

その時人々が急に道の左右へ分かれて自然と道を開け、嬉しそうな笑顔を浮かべて一様に頭を下げた。
何事かと塀のこちらから見つめるクムジュの目に、一頭の美しい馬が飛び込んできた。

陽射しに光る黒鹿毛の毛並み。すんなりした馬体。
大勢の気配に暴れるでも動じるでもなく、軽い足取りの常歩で人々が作った道の真ん中をやって来る。

何てきれいな馬だろう。

クムジュはそう思いながら、最初にその馬に見惚れた。私も欲しい。あんな利口そうな可愛い馬。
そしてようやく気付く。人々は可愛い馬でなく、馬を操る騎手に笑みを浮かべ頭を下げている事に。
黒鹿毛の馬から視線を上げて、クムジュはその鞍の上を確かめる。

操る馬よりも黒く輝く髪。クムジュの知る父親や、その周囲の男達のような髷は結っていない。
吹く風にその髪を揺らし、真直ぐに姿勢を正し視線を先へ向け、周囲の人間の安全を確かめるように時折左右の人波へ目を落とす。

何て美しい人だろう。

クムジュはその騎手の美しさにぼうっと見惚れた。
塀の縁に掛けた指先が草で切れて、血が滲んでいる事にも気付かずに。
美しい馬、そしてもっと美しいその男は、決して急ぐ様子もないのにすぐに目の前の大路を抜けて、皇宮の大門へと入って行った。
塀の縁に掛けている指先の痛みを思い出すまで、クムジュはそのまま馬と男の消えた皇宮の方をじっと見つめていた。

私も欲しい。あの美しい男の人。

その男が大切そうに胸に抱き、鞍の前に乗せていた白い医官服の女の姿など、身勝手な幼い目には全く映らなかった。

 

 

 

 

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