2016再開祭 | 黄楊・陸

 

 

雨粒の伝い落ちる眸の前の扉を叩く。返答はない。
軒下から首を反らし、雫で曇る窓越しの暗い部屋内を確かめる。
其処から笑いかける瞳も、跳ねるように舞う亜麻色の髪もない。

扉を静かに押し開く。雨で冷たく湿った空気が漂う無人の部屋。
俺を呼ぶ明るい声も、脈を読もうと伸ばされる温かな指もない。

あなたの不在がこれ程淋しい。

いつもなら王妃媽媽の御拝診を終え、戻っている筈の刻だ。
あの方に残るように言い聞かせねばならん。
あの喋り過ぎる唇が、取り返しのつかぬ言葉を吐く前に。

踵を返し、今踏み入ったばかりの扉を出る。

次に叩いた診察棟の扉前。
濡れた雨外套の頭巾の縁から雨を滴らせる俺へ向け、応対に出たキム侍医は驚いたように言った。
「ご一緒ではなかったのですか、チェ・ヨン殿」
「まだ戻らんのか」

誰の事とは互いに問わん。俺が典医寺に出向く理由など唯一つ。
「時間が掛かり過ぎです。王妃媽媽の御体に何かあれば報せが来る筈ですが、そういった事は一切ない。
てっきりチェ・ヨン殿と御一緒とばかり」
「判った」

戻っておらぬなら、まだ坤成殿に居るだろう。
雨中へ飛び出す背にキム侍医の目が追って来るのを感じつつ、泥の中を走り出す。

 

*****

 

俺に昇格など、させて如何する。

武官が毎度糞の役にも立たん御前会議に同席して、一体この国がどう変わる。
剣は疎か何の志も持たず己の保身しか考えぬ爺共の、堂々巡りを延々と聞かされるだけだ。

そんな暇があるなら兵の鍛錬を。軍議を。より効率の良い戦術を。
一人でも多くが生きて還れる戦法を。あの方を確実に護れる力を。
巴巽の女鍛冶の武器の出来を。ムソンの続ける火薬作りの進行を。
確かめるべきは山積だ。刻がどれ程、体など幾つあっても足りん。

音もなく辺りを濡らす雨の中、己の濡れた足音が響く。

王様が俺を今よりも尚、近くに置いて下さろうとする事は嬉しい。
お守りするにあたり、高い官位を頂く事で周囲の不穏な動きを予め察知し、牽制出来れば最良。
しかしそれなら、今の大護軍の地位で十分だ。
これ以上の俸禄も要らぬし、俺だけが地位や権力を甘受する事は出来ん。

金を掛けるべきはムソンの火薬。そして手裏房の情報への礼。
兵の士気を高め、奴らの家族の生活を守る為に使わねばならん。
俺を昇格させる分の碌をそれらへ廻せば、この国はより良くなれる。

一人だけが我が世の春を謳歌しても、所詮はその懐が肥えるだけだ。
国を良くする為にはその一人がどれだけ手を尽くしても限度がある。
国の民に等しく春が訪れねばならん。あの方が憂う事の無いように。
心と体が健康で日々の暮らしに困らねば、人は明るく生きていける。
その民の明るさが力を生み、その力で国そのものが強く健康になる。

俺が目指す処、この手に掴みたいもの。
干渉を受けず民の足で立てる国、あの方が倖せに笑える国を。
その為に俺が欲しい力は、己のみを肥やす富や権力とは違う。
一体どうお伝えすれば、その本心が王様に真直ぐ伝わるのか。
地位も名誉も碌もいつでも捨てる。
それと引換にあの方を永遠に護る力が手に入るなら、この場で即座に。
捨てる事には怖さも悔いもない。得る事が厭なのだ。鬱陶しいのだ。

王様の目指される処、王様が望まれるもの。
同じ男として誰より愛する方を案じ、そして同じ方向へと我が高麗を導きたいと願われていると信じていた。
ただあの方を護る為にだけ皇宮へ戻った、俺の心を御存知なのだと。
権力や地位が欲しいからではなく、あの方が戻って来るこの国を良くしたい。
その国を治め導いて下さる王様をお守りする、俺の信と義を判って下さると。

それなのに何故、其れが俺の昇進という話になるのだ。
何故民や兵に眸の届かぬ処へ追い遣ろうとされるのだ。

歩く事さえ疲れたと降る雨の中に足を止める。
濡らす事を思い出した雨が髪へと落ちて来る。

判っている。王様が何故昇格の話をされたのか。
これから先の高麗にはより強大な武力が必要だ。
庚寅の乱や癸巳の乱の二の轍を踏まぬよう、門閥化した文臣に父上の繋いで下さった縁で顔が利く俺を出す。
兵や民が支えてくれる俺を先ず昇格させ、次にチュンソクらを順次昇格させる御積りだろうと云う事は。

そうではないのだ。それでは駄目だ。
適材適所という言葉の通り、俺以上にそんな采配に向いた奴がいる。
俺はただ座って合議に参列し、重房で愚にもつかぬ不平をぶち撒け、人事を掌握し権力を独占し、都房もどきを再編するつもりなどない。
兵は私腹を肥やしてはならん。民の為、国の為、王様の為に在る。
生きるも死するも己より大切な者を守る為。そんなやり方しか知らぬ者に、武臣の長など務まる筈もない。

王様の目指す国の力になれぬ己がお側に控えて居ても仕方がない。
その御心裡が判っていながら頷けぬ、お受けする事の出来ぬ俺が。

肚裡を読み間違えば戦には勝てぬと誰より知っている。
逆に読めているのに頷けぬ時も同じ事なのだ。
今の王様の御考えを変える事も、そして俺が志を曲げる事も、何方も長じてこの国の為にならん。
そうなる前に袂を分かつ。それも必要だろう。
互いに譲れぬ道があり、命に代えて護りたい方を持つ男同士として。

王様から離れる事になっても、チュンソクも迂達赤も、アン・ジェら禁軍もいる。
例え野に下ろうと、王様を裏切る事だけは決して無い。
あとはこの背を見て来た奴らが、志をも継いでいる事を祈るだけだ。

再び歩き出す雨の中。 何よりも先ずあの方の口を塞ぐ。
余計な事は言わせてはならん。 辞するという一言はそれほど重い意味を持つ。
叔母上でなく武閣氏の長、王妃媽媽付き筆頭尚宮チェ尚宮への報告。
そして手裏房の酒楼。最低でも今日のうちこの二箇所は押さえたい。

明日には碧瀾渡へ、出来るならそのまま足を延ばし巴巽村へ。
北方の国境隊と南方のアン・ジェへの報告は、すぐには無理だろう。
官位返上後の挨拶になるとしても共に戦場に立った朋として、廿歳の頃から知る旧友として、肚を割って今後を託す事になる。

足許の泥濘を蹴り、歩を速める。

一刻も無駄に出来ん。
先ずあの方を確かめそして王様に最後のご挨拶を。
雨外套の下に纏うた麒麟鎧の正装が濡れぬうちに。

立つ鳥跡を濁さず。
最後のご拝謁で、見苦しい姿を御目にかける訳にはいかん。

 

 

 

 

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