「奇轍!!」
俺の叫びに答える者もそこにはいない。
「副隊長。先ずは冷静に」
御医が息を吐くと首を振り、俺に振り返ると仏像の灯を避けるように広場の隅の暗がりへ歩く。
まるで周囲の人目から身を隠すように。
「この衣では目立つようです。医仙が初めていらっしゃった折の衣を覚えていらっしゃいますか」
歩きながら御医に問われて思い出す。
隊長が天人をお連れし、天門を出て来た時。
門から吹く風の中、髪も衣も乱した医仙を一目見て思った。
なんと奇妙な髪色、珍妙な衣かと。すっかり忘れていた。
全てが見た事も考えた事もない、珍しい物ばかりだった。
隊長が天界から持ち帰った透き通った盾。
隊長の背負って来た荷に詰め込まれていた医仙の治療道具。
この世が本当に天界なら。あの医仙がいらした世界なら。
御医と共に闇に紛れ込み、周囲に人の往来のないのを確かめて大きく息を吐く。
「しかし相手は奇轍です。鎧を脱ぐ訳には」
「天界に戦は無いと伺いました。奇轍は逃げた。
先ずは追うのが先決です。目立たぬよう追う方が得策かと」
「御医」
「はい」
「此処は、本当に天界ですか」
「・・・恐らく。しかし天界ではなく、高麗です」
「何を言っているんです、御医。高麗のわけがない」
「副隊長」
「見て下さい!」
闇の向こうに光る弥勒菩薩を指し、先刻の奇轍に負けん声で叫ぶ。
「高麗にあれ程大きな弥勒菩薩はない!あんなに真白い石はない!あんなに明るい蝋燭や油灯はないでしょう!」
「おっしゃる通りです、副隊長」
「では高麗ではないです!高麗のはずがない」
「ええ。ですから、先の世界なのです」
御医は初めて納得したように、一人で幾度も深く頷いた。
「私も初めて医仙に伺った時は意味が判りませんでした。先の世、未来から来たと。
高麗から長い長い時を超えて、その先が今のこの世だそうです」
「先の、世」
「そうです。時が変わり国の名が変わり、人が死に、そして生まれ。
何代も何代もの人々の流れの先に、この世界があるそうです」
「そんな事が・・・」
「極端に考えればこの世からいらした医仙は、高麗の私たちの誰かの子孫の可能性もあり得るでしょう」
「・・・御医。まずは整理させて下さい」
俺が唸ると御医は口を閉じ、静かにこちらを見つめた。
「今ここが高麗だとすれば、開京まで戻れば皇宮はありますか」
「・・・いいえ。医仙がおっしゃるには、高麗の名は消え別の国になる。その折に遷都されるそうです。
そして医仙の頃には、既に王という方自体がいらっしゃらなかったと」
「王様が、おられない・・・」
「はい」
俺たちが今、この命を懸けてお守りする王様がおられない。
そんな馬鹿な話があるものかと思いながら、それでも周囲の光景を見渡せば、どんな奇想天外な話も信用できる。
「俺達は戻れますか」
「天門が開いている間に入れば、隊長が戻っていらしたように。信じるしかありません」
そうだ。隊長はこの世で神医を探し出して高麗へと戻って来た。
俺も必ず戻らねばならん。王命があるのだ。
医仙を脅かした徳成府院君 奇轍を捕縛し、必ず王様と隊長の前に引き摺って戻らねばならん。
そうでなければ俺達の隊長は枕を高くして眠る事は出来んだろう。
残してきた迂達赤の奴らではまだ隊長を補佐するには不安が残る。
少なくとももう暫し。
誰かが俺の代わりに隊長の肚を読み、言葉少ない不愛想な隊長の肚の裡の声を聞けるまで鍛え上げねばならん。
「戻らねばなりません」
「私もです、副隊長。典医寺に。まだ医仙にお教えしていない事が山ほど残っている。
王様や王妃媽媽の拝診も、他の医官では未だ」
御医も同じだ。俺達二人、共に必ず戻らねばならん。
「しかし手ぶらでは戻りません。奇轍を捕らえねば戻れません」
「判りました」
暗がりの中で頷くと、御医は懐へ手を差し入れて水薬の小瓶を取り出した。
そして次にご自身の帯に結んだ絹紐の水晶玉の飾りを解く。
「御医、何を」
「副隊長」
俺の問いには答えずに御医はじっと俺を見た。
飾り紐の先に揺れる水晶よりも、その目の方が澄んでいる。
「医仙のお話を聞いた時には俄かに信じられぬ事ばかりでしたが、今初めて感謝したい気分だ。いろいろ伺っておいて良かった」
独り言のような声に首を傾げた俺に、御医は静かに言った。
「この世で必要なものがあるのです」
「はい」
「金、だそうです」
「か、ね」
「はい。金さえあれば何でも出来ると」
御医の声に慌てて鎧の下、懐へと腕を突っ込む。
「今、持ち合わせはこれしか」
銭を引きずり出して見せた俺に御医は首を振ると、
「高麗の金は、この世では使えないそうです。但しそれらを売ってこの世の金に換えられると。そして最も高価なのは器だそうです」
「器」
「ええ。医仙は以前、皇宮の大壺を持ち帰ろうとされていました」
御医は思い出したように微笑むと、薬瓶を目の前に掲げて見せた。
「宝玉、器、そういったものが高価だとお聞きした事があります。まずこれらを売りに参ります」
「・・・売る、とは」
「医仙のお話では町には古物商という商いをする店があるとの事。
その店を探し出し、まず持っている器も宝玉も総て売り捌きます」
「はあ」
「金を手に入れ、次に奇轍たちを探し出します。捕えて連れ帰りましょう」
「判りました」
「奇轍になく、私たちにあるもの。それは医仙から伺ったこの世の情報です。情報がなくば、右も左も判りません」
「それは確かに」
金が要るのは判っても、高麗の金が遣えぬ事や古物商の事は奇轍たちは知らぬに違いない。
戦の勝敗、世の流れ、それらを情報という金財が左右するのはいつの世も変わらぬ定石の筈だ。
あの奇轍がこの世で金を払う段になり、どんな顔をするのか。
金を持て余す事はあっても、貧困の辛苦など味わった事もなかろう。
市井の民の辛さを味わってみれば良い。金の苦労を味わえば、腐った性根も少しはまともになれるかもしれん。
その顔を思い浮かべて、俺はようやく少し溜飲を下げた。

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