2016 再開祭 | 天界顛末記・丗陸

 

 

迂達赤や医官なら、振り切るに問題は無い。
しかしもし三人目が予想通りあの迂達赤隊長だとすれば、今の私に勝ち目は無い。

「ナウリ」
またしても二人きり取り残された格子の中、背後で恐る恐る良師が呼び掛ける。
「万事休すか」
「どういたしますか」
「お前の薬は没収されておる。私の気は枯れておる」
「それはそうですが・・・」
「此処から抜ける瞬間を狙う。逃げるとすればそれしか無かろう」
「しかし逃げた処で、手持ちの金もなく隠れる当てもありません」
「もしも連れ帰られても、いや、連れ帰られたなら」

格子の隙間から差し入れられたのが、初めての天界の膳だった。
こうして床で惨めに搔き込んだ事は決して忘れまい。
二度でも三度でも必ず舞い戻って来てやる。
戻って来て望む天界の全てを手に入れるまでは、決して諦めん。

「良師」
「はい、ナウリ」
「もし連れ戻されれば、まずは医仙にお会いする。お会いして天界で何が必要なのか、一から十までお聞きするのだ」
「近寄る事は許されません。迂達赤隊長が厳重に警護するでしょうし、あの王も同じかと」
「そんなことは構わぬ。名分を見つけろ。医仙にお会いできるよう。手出しするわけでも害成すわけでもない。
お伝えするのだ。天界は誠に存在したと。医仙をお返しできる道が分かったと。お帰りの際、私が今一度お供すれば良い。
今度こそ準備万端整えてな」
「では、高麗に戻ってくださるのですね」
「此度は仕方ない」

金もなく、満足に食べられず、寒さに震えるのは耐えられぬ。
ましてこんな鉄格子に閉じ込められ、自由まで奪われるなど。
まずは自由の身となるのが先決だ。その為ならば一旦は高麗へ連れ戻されても致し方あるまい。

体が万全となり、準備を整え、気が今一度満ちたなら二度とこの失態を繰り返さぬ。
誰が追って来ようと次こそは逃げおおせて、天界の全てをこの手に入れてみせる。

寒々しく惨めな膳に添えられた銀色の、しかし銀の重さを全く感じぬ匙をぎりぎりと握りしめ、最後に良師へ吐き捨てる。
「二度と医仙を疑うような事を申せば、この私が黙っておらぬ。医仙が手を下す前に、私がお前を殺す。よくよく肝に銘じておけ」
「かしこまりました、ナウリ」

己でも天界を見たからか。たった今天界に居るからか。
さすがの良師も一切の反論もせず、そう言って深く頭を下げた。

 

ああ、ようやっと言ってくださった。

良師ク・ヤンガクは安堵の余り、目前の奇轍に届かぬように深い息を吐いた。

そもそもあの女を妖魔と呼んだのも、その発言の真偽を疑ったのも。
そしてあの王に手を貸す邪魔者として幾度も手を下そうとしたのも、他ならぬ己の主人、奇轍ではないか。

自分はこんな世に来たいなどと、一度も望んだ事はない。
確かに天界が在る筈などないと思ってはいた。
真偽を疑っていたのでなく、端から偽の話だと思い込んではいた。

次に来るならこの身勝手な主だけが来れば良い。
毛緋玲でも兪鶄でも好きな供を引き連れて、勝手に来れば良い。
その時には決して供はしない。天界など二度と御免だ。

良師に取って見知らぬこの地は、まさに魔境だった。
想像だにしなかった地。
己の理解の範疇を超えた者共が行き交い、見も知らぬ文字が溢れ、悪意に満ちた罠が仕掛けられたこの天界。

何故奇轍がここまで固執するのかも理解出来ない。
夜も不気味に明るく、馬の無い馬車が行き交い、何処もかしこもただ騒々しく、己も主も癒す薬湯さえ手に入らぬ世に何を求めるのかが。

己の毒の知識の活かされない場所など、過ごす価値はない。
だからこそ本心では一日も早く帰りたかった。こんな処はまともな者が好き好んで訪れたい場所ではない。
そう言ってしまえば主の逆鱗に触れる事が判っていたから、口に出来なかっただけなのだ。

早く帰りたい。一刻も早く。鉄格子に閉じ込められる経験など真平だ。
これも天界だと言うならば、主だけが閉じ込められるが良い。

例え己を自由にするのが、あの目障りな迂達赤や皇宮の侍医だとしても、此度だけはその者らに感謝をするもやぶさかでない。
己を自由にし高麗へと連れ戻してくれると言うのなら、たとえ相手が百三十六地獄の閻魔であろうとも感謝するだろう。
帰れる。漸く聞けたその言葉に一縷の望みを抱き、良師は体を丸めて膝を抱え、冷たい石壁に凭れた。

 

*****

 

「お茶飲みましょう?もうすぐお昼だからご飯でもいいですよね。
お腹空いてないですか?まずはどこかあったかい所に」

陽が中天に差し掛かる頃になっても、溶けたのは日向にあるほんの僅かの雪だけだ。
夕になれば冷たい空気で、それも見る間にまた凍るだろう。
それでも久々の晴に誘われたのか、通りには人が続々と増えている。
寒い大路にふわふわと白い息を吐き、ソナ殿が不安げに此方を見た。

叔母殿のご厚意で役目を休んでいるソナ殿が、茶房ヘ足を向けるのは心苦しいかもしれん。
けれど病み上がりの体で寒空を歩かせるのは心配で、思わず御医を目で探る。
その視線に頷き返し、御医はゆっくりとソナ殿へ問う。
「そう致しましょう。ソナ殿のお好きな処で」

白い襟巻に顎を埋めて暫く黙ったソナ殿の瞳が上がる。
三人を平等に見て下されば良いものを、瞳はこの目から離れない。
「いろんな所を案内したいです。私が初めてここに来てから驚いたり、楽しかったりした場所。
屋台も、おいしい宮廷料理のお店も。
それに観光。初めての日に興仁之門を見ただけですよね?
歴史建築に興味があればまずは絶対景福宮だし、昌徳宮もあるし、宗廟も徳寿宮も。
光化門広場でイ・スンシン将軍の銅像を見ましょうか?
北村韓屋村もステキだし。夜景なら63ビル、Nソウルタワーや清渓川は外せません。
お買い物に興味は?まだ東大門しか行ってないけど明洞やカロスキル。
お兄さんたちなら梨泰院でも、パスポートを持っていけば免税店でもお得にお買い物できます。
もしキチョルさんたちが一緒に行ければ、地方に行くのも楽しいです。
食の全州、それとも釜山で海雲台を見るとか、いっそ足を延ばして済州」

勢いよく一息に言いながら、次々に白い手套の指を折る。
奇轍と一緒に、という下りは冗談にもならないが。
おっしゃる言葉の殆どは判らぬまでも、最後の済州で隊長と御医と目を見交わす。
「済州ですか」

俺の声にソナ殿が首を傾げる。
「え?」
「天・・・この世に、済州があるのですか」
「はい。ミカンとハルラ山と中文リゾートが有名です。でもさすがにソウルから日帰りは・・・厳しいかもしれないなあ。
島がいいなら仁川から月尾島とか、江華島ならじゅうぶん日帰りが出来ます」
「・・・江華島」
黙り続けられなくなった隊長が低く呟くと、ソナ殿へ眸を向けた。
「ソナ殿」

初めて隊長に名を呼ばれ、黒い瞳が大きく見開かれる。
一度この顔を縋るよう確かめ、俺が小さく頷くと小さな体が俺の背に隠れるように廻る。
そこから顔だけを覗かせて、瞳が恐る恐る隊長へと移った。
「・・・はい、チェ・ヨンさん?」

今まで隊長に懸想しあの手この手で近寄る女人は山程見たが、これ程まで隊長を敬遠する女人を見るのは初めてだ。
隊長は真直ぐソナ殿を見つめ、怯えた瞳など気にせぬように尋ねた。
「国境は何処ですか」
「くに、ざかい?国境のことですか?ボーダー」
「この国と隣国の境は」
「板門店の事かな。北との境界線です。開京工業地区は入れないし・・・あ!」

ソナ殿は声の途中、この背にしがみ付くよう少し身を乗り出した。
「そうだ。鉄原はどうですか?こないだ叔母さんに言われて、チェ・ヨンさんと同じ名前だからって。
高麗のチェ・ヨン将軍についてネット検索したんです。チェ・ヨン将軍の出生地、鉄原なら国境の真横ですよ。
行ってみますか?」
「鉄原が国境なのですか」

ほんの僅か狼狽える隊長の声に、ソナ殿が不思議そうに頷いた。
「はい。ぎりぎり南に入ってます。行ってみましょうか?ここから片道2時間くらいかかりますけど」
「・・・いえ」

隊長は複雑な顔を背け、それだけ言って首を振った。
鉄原。確かに隊長の本貫だ。
そして国境よりもずっと南、開京からそう遠くないところにある。
今の国境が鉄原なのだとしたら、俺たちの守る鴨緑江のあの国境はどうなったというのだ。
慶昌君媽媽の謫居された江華島の名が残り、牧子の支配する済州もあるのに、国境だけが南へ下がっている。

混乱する頭を振る俺と顔を背けた隊長を宥め、そして不得要領な顔のソナ殿を取り成すように、頼みの綱の御医が相も変わらずゆったりと言った。
「我々では判らぬ事ばかりです。一先ず暖かい処へ参りましょうか。店はソナ殿にお任せします」
御医の声に安心したように、この上衣の裾をきつく握りしめていた柔らかな手套が緩やかに離れていく。

離れるのが心の何処かで確かに淋しい事は、伝わってはならない。
その気配を追うように肩越しに振り返ってしまった視線の行く先を、隊長の眸だけが捉えている。
「・・・馬鹿が」

呆れた溜息交じりの呟きに返す声もなく、俺は小さく頭を下げた。

 

 

 

 

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