2016 再開祭 | 天界顛末記・廿漆

 

 

片腕を盆で塞がれたまま、もう片腕の拳で目前の扉を叩く。
横殴りに吹き付ける雪の中、すぐに頭上に橙色の温かい灯が灯る。

細く開いた扉の奥、覗いた叔母殿の顔が嬉し気に緩む。
「あらーチュンソクさん。どうしたの?」
「朝早く申し訳ありません」
「それは全然構わないけど」

叔母殿は笑みを浮かべると
「それより入って入って。寒いでしょ」
そうおっしゃると部屋内から冷たそうな石敷きの玄関口へ降り立ち、大きく扉を開いて下さる。

盆を抱え一礼し、招かれざる客である俺はその内へと一歩踏み入る。
「すごくいい匂いがする」
「御医より生姜湯だそうです。ソナ殿に」

部屋内へと手招きつつ、後ろに従いた俺へ振り返る叔母殿が目を丸くした。
「それでわざわざ、持って来てくれたの?」
「熱を出すまでは生姜と人参が良いと。上で人参粥を炊いております。もう少しすれば、また改めてお持ちします」
「お粥まで?どれだけ義理堅いんだか」
「とんでもない。ソナ殿が倒れたのは自分の所為です」

その声に前の叔母殿の表情が曇る。
「どういうこと?」
「自分が、此処を出て行くとお伝えしました」
「出て行く?どういう意味?」
「人も増え、最初の約束と違います。申し訳なく」
「そんな事気にしてたのぉ?!」

呆れた顔で大声で叫んだ後でソナ殿を思い出されたか、叔母殿は慌てて声を低くした。
「あのね、チュンソクさん」
「はい」
「あの子が倒れたのは、多分疲れが溜まってたから。限界だったの。体が悲鳴を上げてたのに聞かないフリしてた。
これを機会にもう少し自分の体を労わる事を覚える良いチャンスで、あなたのせいじゃない」
「しかし」
「しかしもモヤシもないわよ。でもね」

そんな風に茶化した後、その表情が改まる。
「あの子とちゃんと別れてあげて。理由も言わずに消えたりしないで。
今日までだ、って日に別れてあげて。笑って、手を振って」
「・・・ソナ殿にも、同じ事を言われました」
「そうかあ」

叔母殿は息をつくと困ったように苦く笑う。
「あの子、ダメなのよ。急に消えちゃダメなの。ねえチュンソクさん」
「はい」
「お粥よりショウガ湯より、もしもあの子に感謝してくれてるなら、それだけ叶えてあげて。ちゃんと約束を守ってあげて。
屋根部屋に入るなら、友達を5人でも10人でも連れて来て構わない。そんな事はどうでも良いわ。
ましてチェ・ヨンさんみたいにハンサムな男なら、こっちはいつでも大歓迎よ。
でも突然消えないで。ちゃんと理由を言ってあげて」
「幾ら何でも、五人はないかと」
「冗談よ」

足を止めて目の前の扉を指すと
「あの子は起きてるから、それちゃんと飲むように言ってね?私はリビングにいるわ」

叔母殿が手を振り、案内した廊下をお一人で戻って行く。
しかし途中で気を変えたか振り返ると、こちらを睨んで声を続ける。
「チュンソクさん」
「はい」

目前の扉にどう呼び掛けるか惑いつつ顔を上げた俺に
「手を握るまでよ?それ以上はダメ。朝だから」
本当にその言葉が何処まで本気か判らない。誤解されては困る。慌てて
「朝でも夜でも握りません!」
言い訳じみた声を上げると
「それはもっとダメ」

叔母殿は笑いながら、今度こそ本当に背を向けて歩き出した。

 

*****

 

遠慮がちに叩いた扉。 今までの朝とは反対だ。
この世で毎朝こうして下さったのは、いつでもソナ殿の方だった。
「ソナ殿。起きていらっしゃいますか」

返答がなくば、声が返らなければこの盆を扉前に置き、叔母殿に挨拶だけして戻る。
ソナ殿もそんな風に考え、毎朝あの扉前で小さな声で呼んで下さったのか。

起こすのは忍びない。けれど朝餉は口にしてほしい。
それで少しは気分良く一日を迎えて頂ければと。

考えて考えてまた考える。それでも答は出ない。
あの声の主。ソナ殿の笑顔の向うに揺れる面影。
心が千切れるほどに懐かしく愛おしく、必ず守らねばとただ焦る。

俺は今だかつてそんな方に出会った事はない。
これから巡り逢えるのかどうかも自信はない。
色恋沙汰に感けるには、余りにゆとりがなさ過ぎる。
王様の守りに隊長の補佐、迂達赤の役目に兵の鍛錬。

知らぬ声が愛おしく、見た事もない方が懐かしいなど、それでは本末転倒ではないのか。
知ったからこそ愛おしく、逢ったからこそ懐かしい、それなら判る。
昨夜も己の愚かさを責め苛みつつ、まんじりともせず一晩中考えた。
しかし幾度思い返しても、何処をどう思い出しても、思い当たるような方がおらん。

そして本当に愛おしく懐かしいのは、扉向こうのソナ殿なのだろうか。

─── 雪だ、チュンソク

初雪の舞い落ちる中、確かに響いたあの声の持ち主は、本当に。

ソナ殿が俺をチュンソクと呼び捨てるなど、想像もつかん。俺たちがそこまで近しい間柄になる事も、絶対にあり得ん。
残された刻はあと僅か。奇轍を捕縛しその足で高麗へ戻る。最初に七日とお伝えしたのは方便のようなものだったのだ。

奇轍の捕縛が七日のうちに終わるのか、それより早いのか、それは俺にも判らない。
だとすれば約束を果たせずに、突然消える事にもなり得る。笑って別れを伝える事も、再会を誓う事も叶わんままで。
そんな約束すら守ると誓えず、一体何を誓えると言うのだ。だとすれば今此処で確り別れをお伝えするのが筋だろう。

戻らぬソナ殿の返答を待つよりも、まずは確実に叔母殿に。
せめて御医の心尽くしの生姜湯を扉前に置こうと、膝を屈めた途端
「はい・・・どうぞ」

昨日最後に聞いた時よりも、酷く鼻にかかる声に思わず息を吐く。
こうして声が返ったからには、お会いして直接お伝えするしかない。
盆を置こうと屈めていた膝を伸ばし、俺は目前の扉を開いた。

 

 

 

 

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