2016 再開祭 | 天界顛末記・廿肆

 

 

「いやあ、こんなホームレスもいるとはねえ。随分豪勢な服着て」

案内され辿り着いた先は壁に染み出す臭い水の跡の残る、薄暗い隧道のような処だった。
四、五人の先客の男達が車座を組み、通り掛かる者たちはその車座を避けようと反対側の壁まで大きく逸れて行く。

その先客達も案内役の男と変わらぬ出で立ちだ。汚らわしい事この上ない。
世の栄華を極め王にまで上り詰める事も夢ではない徳成府院君奇轍と同席を許されるなど、考えられぬ下賤の者共だ。

「あんたらは、どっから来たんだい」
「ここらじゃ初めて見た顔だが」
「この方をどなたと心得る。気軽に話しかけるな!」

良師が血相を変え、男らにそう叫び散らす。
「ナウリ、お気になさらず」
「おお怖え。そんなに睨むなって」
「お前らと話す事などない。膳を置いて疾く去れ」

車座の中央に寄せ集められた器に盛られた物。
色形や匂いからすれば食事には違いまいが、これまで食して来た膳とはあまりに違う。
まるで幼かった頃の奇家の粗末な食卓のようだ。
待ち望み訪れた天界というに、厭な記憶ばかり揺り起こされる。
この湿った暗い隧道も、そこに漂う臭いもそうだ。

貴族とは名ばかりの、没落し家柄だけが辛うじて残った赤貧の奇家。妹を貢女に出さざるを得ぬ程に。
そして妹が皇帝の目に留まらねば、今頃私も生家の者たちも、野垂死にしていても不思議は無かった。

師匠に氷功を見出され、少しは碌な暮らしになるかと飛び出た先に待っていた、鍛錬という地獄の日々。
決められた鍛錬が達成できねば罵倒と拳が待ち受け、食事どころか寝場所すら与えられず、成せるまでひたすら鍛錬をさせられた。
あの憎い師匠が死んで誰より喜んだのは、きっと己自身だ。
毛緋玲も兪鶄も良師ですらも僅かに悲しい顔を見せたが、私は心から嬉しかった。小躍りしたいほど。

憎しみも情だと言うが、私には情など判らぬ。ただ憎かった。
ひたすら憎く、あの死に顔を見た時心に過った後悔は、この手で、師に教え込まれた氷功で殺せなかった、それだけだ。

だから全てを手に入れたいのだ。今まで耐え忍んだ分、受けた罵倒も屈辱も万倍にして、あらゆる者に返してやりたい。
何もかも手に入るからこそ、持っている者共から奪いたいのだ。
何の苦労もせず当然の顔で恵みの雨を受ける者共を跪かせたい。

誰より、あの王とチェ・ヨンを。

まさに天の血とやらを受け継ぎ、全ての権力を握って当然の顔をし玉座に居座る、身の程知らずの生意気な若き王を。
そして師が全国を渡り歩き探そうと血眼になった雷功の遣い手、鍛錬でなく天賦の才ある者だけが操れる雷功の主を。

そして、二人が守る天界の女人。

話を聞いても半信半疑だったが、己が此処に居る以上もう疑いの余地はない。
天界は存在した。医仙は確かにこの世からいらした。ただ問題は、ここでどう己の飢えを癒せば良いかが判らぬ事だ。

黙りこくった私に向け、車座の男から取り成し声が掛かる。
「まあまあ、そんな難しい顔をすんなよ」
「そうだよ、ここにいる奴らはみんな同じだ。帰る家もない」
「図に乗るな。お前ら下賤の民と同じだと」

馴れ馴れしく話しかける男に冷たい目を向けても、その男は気にも留めぬよう大きな椀を私に手渡し、酒をなみなみ注ぎ入れた。
「こんな上等な酒をどうした」
このような下賤な者が呑むとは思えぬ。高麗でも滅多に見ぬような、澄んだそれに驚いて尋ねれば
「上等ねえ・・・まあ俺たちにとっちゃ上等だが・・・」
解せぬ顔で独り言ち、気を取り直すように男は目で椀を示した。

「とにかくお飲みくださいよ、ナウリー」
その機嫌取りの声に気を良くし、私は一息に盃を呷った。

 

「・・・なさい」
眠りを邪魔するその声に、寝返りを打ち背を向ける。
「おい、起きられるかい」

相手は相当しつこいらしい。背を向けた私の肩を強引に揺さぶる手に苛立ちながら、思い切り振り払う。
「起きなさい、聞こえますか?」

天界で初めて訪れた深い眠りだったというのに。
頂点を迎えた苛立ちの中で朝を迎えるなど、徳成府院君にあってはならぬ。
「起きなさい」
「煩い、一体何事だ!」

そう怒鳴って体を起こした途端、申し訳程度に体を覆っていた灰色の薄紙の山がはらはらと舞い落ちる。
その寒さに途端に体中が震え、慌てて周囲を目で探す。

消えている。衣も、そして酒を大盤振る舞いした男共も。
いや、男などどうでも良い。私の衣は何処だ。
寝る時には確かに着ておった筈だ。こんな肌着と下衣のみで、この冬の寒空の下、眠れる訳がない。

しかし私を揺り起こした無礼な男は下衣姿に驚きもせず、
「ああ、やっぱりね。お宅やられたねえ。凍死しなかっただけ幸運だと思いなさいよ。
これに懲りたら家で寝なさい。帰る時はタクシーで」
それだけ言い捨てると呆れたように、汚らしい土床から立ち上がる。

「な、ナウリ!」
私と男の遣り取りを無言で見つめていた良師が叫び、私と同じよう周囲へ視線を巡らせる。
「衣はどうされたのですか。御休みの時は確かに」
「昏睡強盗だよ」

訳の判らぬ私が答えようとせぬのを見兼ねたか、代わって先刻の男が言った。
「世間知らずのお宅らみたいなカモを見つけちゃ酒で潰して、眠り込んだとこで金品を奪うのさ。洋服の他に盗られたものは?」

その声に良師が慌てて懐へと手を突込み、その奥深くまで探した後で真青な顔で此方を振り向く。
「銀貨が一枚もありません。ナウリ、御髪の金釵は」

良師に言われ髪へ手を伸ばせば、昨夜確かに挿していた金釵が無い。
「ああ、金も宝石も盗られたか。命を取られないだけ良かったね。
金目のもんが何もない時は、顔を見られてるから攫って埋められる事もあるんだ。ソウルはおっかないからね」

その男の声も碌に耳に届かぬ。命など助かって何になる。
金も衣も金釵も奪われ、薄暗い隧道に放り出され、行く当てもなく。
こんな事ではない。私が天界で見たかった、知りたかったのは。

呆然と立ち尽くす私、何故か衣は纏うたままの良師。私達に向かいその男は首を振った。
「そっちのあんたは良かったね。金目の服じゃなかったから無事だったんだろう。
まだ雪が降ってるから、風邪をひかないように。
タクシーが捕まるまで特別にここにいて良いが、通行人の迷惑になるなよ。早く行かんと警察に連絡する事になる。
済まんが私も仕事だからね」

男は最後に私達を一瞥し、足音を残して隧道の出口へ向かう。
私の恨みがましい視線に、良師は慌てたように目を逸らした。

 

 

 

 

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