2016 再開祭 | 天界顛末記・拾参

 

 

良師に連れ込まれた菜館は、昨夜のような無礼な男は居なかった。
美しいとは言えぬまでも清潔な店内に踏み入り席に陣取る。
給仕の女が奥から水差しと透明な器を運び、卓上に据えた。

ようやく機嫌を直し、良師の注いだその器の水を一息に煽る。

思い返せば天門を出てからというもの飲まず喰わずだった。
たった一杯のただの水が、甘露のよう体の隅々まで染み渡る。
大きく一つ息を吐くと、続いて運ばれた冊子を広げる。
「・・・これは」

私の声に広げた手元の冊子を覗き込んだ良師も息を詰める。
「何と」

そこに書かれたのは漢の文字、そして華侘の手帳の文字、その下に読むことすら出来ぬ何かの記号が並んでいる。
それだけならまだしも、所々には皿の中身と思わしき絵までが添えてある。

昨夜の饅頭店でも思ったものだ。どれほど優れた絵師が描いたのか。
どう描けばこれほど本物よりも本物らしく描けるのか。
「良師」
「はい、ナウリ」
「絵師を探し出すのだ」
「は」
「昨日の店の饅頭を描いた、そしてこの菜の絵を描いた絵師。同じ手に違いない。
斯様に見事に描ける絵師が、この世に二人と居る筈が無い」
「畏まりました、ナウリ」
「まずは朝餉だ」

そして漢字を頼りに気の赴くまま選び取った皿が、次々と運ばれる。
「朝から豪勢ですね」
皿を運び続ける女の世辞の中、卓の上は様々な皿で溢れ返った。
私の食卓はこうでなければならぬ。例え一匙もつけぬとしても、欲しい物が全て並んでいなくてはならぬ。

「どうぞお召し上がり下さい、ナウリ」
機嫌を直した私に露骨に安堵の表情を浮かべた良師が、そう言って掌で卓の上の並んだ皿を示す。
鷹揚に頷くと卓に置かれた匙を取り上げ、目前の最初の皿へ伸ばす。
その旨さ。空腹に耐え兼ねたからか、それとも天界の料理だからか。
無言で匙を進める手元に良師は息を吐いた。

思うままに貪り散らかし、最後に口元を拭って眺めれば、卓の上の皿の中身は殆どが腹の中に納まっていた。
十分に満ちた腹を押さえて席を立つ。先刻の給仕の女が小さな紙片を持ち、歩く私達に声をかけた。
「お客様」

その声に背後の良師が足を止める。
「14万5千ウォンです。カードにしますか、現金ですか?」
「・・・何だと」
「お会計、14万5千ウォンです」
「会計」
「はい。カードにしますか、現金ですか?」

何を言っているのか全く解せぬ。
医仙といいこの女といい、天界の女は全く厄介だ。
「支払え」
「はい、ナウリ」
良師は懐に手を入れると、重い音を立てて銀貨を二、三枚女の手に投げ渡した。
「釣りは要らぬ。取っておけ」

首を傾げて黙って歩き出した私に同じく首を傾げた良師が従おうとしたところで、給仕の女が突然掌を返したように叫んだ。
「ふざけないで下さい!ウォンとカード以外では支払えません!」
女の声に店中の客が私達へと振り返った。同時に店の奥から男が走り出てくる。

「どうした、他のお客様がいらっしゃるんだぞ!」
周囲の客達に頭を下げつつ抑えた声で女を叱責する男に、良師の渡した銀貨を示すと女は私達を指した。
「こちらの方が、会計時にこんなものを」
その掌の銀貨を確かめ、男は途端に作り笑いを浮かべる。
「お客様、少々奥へ来て頂いてよろしいですか?君は・・・お客様のお忘れの財布をお預かりしていると電話を」

財布を預けた覚えはないが、女は大きく頷いて店を走り出す。
困ったように笑むその男に頷き、導かれるまま店奥へと進む。
天界の物が何か見られるかもしれぬ。ようやく此処での足掛かりが出来たのだ。

悠長な足取りで奥へ進む我々を店の客たちが見送る。そうだ、お前達はそうして指を咥えて眺めるが良い。
私は特別なのだ。徳成府院君たる者が市井の者どもと同じ席に座り同じ扱いを受けるなど、そもそも間違っている。

 

*****

 

通された奥の間は、見た事も無いような作りだった。
縦に長くその奥には応接用と思われる床に近い長椅子と卓が置かれ、そこに腰を降ろした刹那。
私達を此処まで案内した男の表情が、突然一変した。
卓向いから此方を眺めると慇懃無礼な口調で諭すように
「あのね?いい年して、食い逃げは駄目でしょう」

そう言う男は茶も酒も出す気配はなく、私をもてなす様子もない。
「取りあえず、他のお客様の前で騒ぐ訳に行かないから。
今なら間に合いますから、代金を払って下さい。警察が来る前に」
男の言葉に
「無礼な!先程銀貨を払ったであろう!どれ程強欲な」
良師が怒鳴って長椅子から立ち上がった瞬間。

「離れて下さい、離れて!!」

奥の間の扉を蹴り破り、黒装束で顔を覆った男が数人、雪崩のように部屋に押し入って来た。
呆気に取られた私達に近寄ると、黒装束の男が一人目前の男を抱えるように扉表へ連れ出しながら
「店長、無事確保!」
そう叫びつつ姿を消す。
残りの男達に長椅子から引き摺り降ろされ床へ組み敷かれると同時に腕を背中へと捩じり上げられ、手首に冷たい重みが掛かる。
「昨夜、この先の飲食店で騒ぎを起こしましたか」

そんな屈辱的な姿勢で問われ、思わず頭に血が昇る。
「お前達は誰だ!私を徳成府院君と知っての狼藉か」
「質問にだけ答えなさい!!」

男は私の問いには一切答えず、野太い声で怒鳴り返す。
捻じ伏せられたまま床で横を見れば良師も同じように床へ腹這いになり、手首に銀色の輪を掛けられて顔を紅潮させている。
「毒を遣うなと店内で叫びましたか!」
「それは」

確かに言った。瞬時声に詰まり口実を探そうと頭を働かせる前に
「昨夜の防犯ビデオは確認済みです。毒物を所持していますか!」
男は言いながら私と良師を立ち上がらせ、胸から腹にかけて黒い手套で確かめて行く。

すぐに良師の懐の瓶に気付いたのだろう、手を入れて毒の入った器を取り出すと
「毒物の可能性あり。すぐに鑑識に回せ」
そう言ってその瓶を、部屋に踏み入って来た別の男へ手渡す。

「危険物所持の疑い、及び無銭飲食容疑で緊急逮捕!」
「ふざけるな、この民草風情が!!この手を離せ、今すぐに!!」
「・・・おい。あんたがどれだけお偉い方か知らんがなあ」
私が怒鳴った瞬間に黒装束の男の一人が鼻先に顔を寄せ、その目から鼻口を覆っていた黒い被り物を片手で毟り取る。

「韓国一般市民の底力、舐めんなよ!!」

唾の掛かる至近距離で怒鳴られ、突き飛ばすよう背を押される。
両手を自由に使えぬのでは、この氷功も役には立たぬ。
押されるまま私は良師と並び、乱暴に部屋を連れ出された。

 

 

 

 

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