2016再開祭 | 加密列・陸

 

 

もうこれで逃げる事は出来ないに違いない。
泡塗れで逃げたりしたら、恥をかくのはあちらの方だ。
「医官殿」

結局何がしたかったのかは未だに判らない。洗濯、まさか。
二人が洗濯場に腰を据えそれぞれ洗濯を始めた処で、身を潜めていた殿の陰から出て呼び掛ける。

さぞ驚くだろうと思った天の医官は、私の顔を見ると泡塗れのままで大きく微笑んで手を振った。
「あ、韓方の先生」
「・・・チャン・ビンです」
「そうそう、ねえ先生、このせっけんの原料って何?」
「は?」

逃げた事への詫びの言葉はないのだろうか。せめて私がここにいる理由への問い掛けは。
予期していた言葉も、予想していた態度もなく、いきなり石鹸とは。
「・・・鹹水と海藻灰、それに油を混ぜて練ります」
「ふーん、無添加せっけんね。じゃあ肌には問題なさそう」
「まあ、そうでしょうね」
「安心した。これで下着さえ揃えば完璧なのに」

身に着けたままの白い衣に件の石鹸を擦り付け、盛大に擦りつつ天の医官は雑司に笑い掛ける。
しかし思わぬ私の登場に、雑司は強張った顔、濡れた足のままで洗濯桶を飛び出し頭を下げた。
「御医様でいらっしゃいますか」
「はい」
「私は先の」
「徳寧公主様にお仕えとか」
「は、はい」
「この方をお連れ頂き、御礼を。私の不手際で沐浴のご用意が遅れ」

そうだ、こうした面倒な遣り取りこそが政。
目上の者の顔色を窺い、自分の仕える者への不利益になりそうな火種は排除する。
しかし白い衣を濡らしたの医官は、そんな小手先の遣り取りに全く興味はないようだ。
濡れ足で地に立っている雑司に
「ねえねえ、あの・・・」

そこで首を傾げると
「名前が分からないと呼びにくいな。私はウンス。ユ・ウンスです。お姉さんのお名前は?」
「ウンスさん、私は美雨と申します」
「めいゆいさん」
「はい、ウンスさん」
「メイユイさん、こっち来て」

呼ばれた雑司は無視するわけにもいかず、頭を下げたまま天の医官の桶へ裸足に儘で寄って行く。
「韓方の先生」
「はい」
「メイユイさんの靴、取ってあげて下さい」
「お、御医様にそんな!」

悲鳴のような抗議を無視すると、医官はご自分の横の水甕から柄杓で水を汲み上げ雑司の足の泥を流す。
「お勤め先は分かったから、あとでお礼に行きますね!」

そう言いながら私が運び、その足元に揃えた沓を目で示しつつ
「楽しみにしてて」
天の医官はそう言って、後生楽にうふふと笑った。

その御自分の鼻の頭に飛んだ石鹸の泡になど、まるで注意を払わずに。

 

*****

 

白い衣に擦り付けた沐浴の泡を綺麗に落とした後。
天の医官は何もなかったような御顔で、濡れ衣のまま沓を履き歩き出そうとする。
濡れた白い衣の下、肌に張り付くその中身がほとんど透けている。
私は無言で自分の上衣を脱ぎ、その濡れた衣の上から着せ掛けた。
「あらら、ありがとう」

平然と言う天の医官の頭の中を、覗けるものなら覗いて見たい。
医術の腕もさることながら、羞恥心や遠慮や駆け引きなどが果たして存在しているのかどうか。
慌てて着せ掛けてみたものの、如何にせん私の背丈に合わせた衣は長過ぎる。
引き摺る程の長衣の裾を両手でたくし上げ、天の医官はそのまま私に目で問うている。

一体どうしろと仰せになりたいのだろう。
見兼ねたメイユイという雑司が戸惑う医官の腰に腕を回し、腰帯で丈を調節する。
「これで良いかと」
「どうもありがとう!」
「こちらの上衣は、まだ濡れていますが」
「ああ、構わないの。帰って干しておくから。洗濯までありがとう」
「そんな事は構いませんが・・・」

言動も考え方も何から何までが、皇宮の仕来りとは全く違う。
生きる世すら別の場所からおいでなら、仕方ないかもしれないが。
「じゃあ後でね。メイユイさん!」
「あ、あのウンスさん」

天の医官は手を振ると、何事もなかったかのように皇庭を歩き出した。
残された雑司の気持ちも判る。
この天の医官に関わるとは、秋の颱風に巻き込まれるようなものだ。
過ぎた後には思わずほっと胸を撫で下ろす。

しかし当のご本人は暢気なものだ。
戸惑ったような雑司を残し、一人で鼻歌交じりに皇庭を歩いて行く。
「医官殿」
「なあに?韓方の先生」
「・・・チャン・ビンです」
「あ、そうそう。ごめんね、私って名前を覚えるのが下手で」
「それは構いませんが」

私はその横を歩きながら、周囲を見渡し小声で確かめる。
「これから何処へ」
「え?チョニシに帰るんじゃないの?」

天の医官は平然と言って周囲を見渡した。
本当に早いうちに掴まえておいて良かった。隊長のおっしゃる通り。
「ならば帰り道は」

私は立ち止まると振り返り、今歩いて来た道を指した。
「あちらです」
私の指の先を確かめると、天の医官は笑顔のままで言った。
「あららら」

 

 

 

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