2016 再開祭 | 桃李成蹊・22

 

 

夜明けの移動で疲れてもいたろう。
飲み食いを拒む俺に気遣いもしていた。
何よりあの南の島での陽と潮風、そして周囲の視線に晒される俺に疲労困憊の域だったか。

寝屋に戻り湯を浴びた途端、この方はことりと眠りに落ちた。
いつもなら寝台の上で交わす、些細な語らいも無いままに。

小さい頭を腕に乗せ、紅い半開きの唇を首筋に寄せ、健やかな寝息が咽喉元で温かく繰り返す。
どうやらこの方抜きで話が出来るらしい。
それでも声が掛かるまでは枕になった心持ちで、腕も体も動かさず寝顔を見つめる。

窓に掛かる二枚の薄紗の隙間。
僅かに開いた其処から寝顔へと斜めに射し込む光の帯が気に掛かる。
一度寝入ったこの方がそれしきで起きるとも思えん。
それでも俺が居らぬ間に、一片の心配事も残したくない。

仮の庇を掌で作り、長い睫毛の目許を覆う。
覆った掌の庇、指に嵌まる金の輪を斜めの陽射しが光らせる。

形だけだと最初は思った。戦の時には邪魔になるとさえ。
その意味も籠められた想いも知らずに。

人は祈る。そして縋る。己の力の及ばぬ処を何か大きなものに。
この方を見て俺は学んだ。
たとえ外面は満ち足りたように見える天界から来ようと、それでもこの方は祈る。ただ俺の為に。

金、名誉、地位、名声。全て手にしたように見えても人は乾く。
己と他者が入れ替わろうと気付かぬ者からの歓声だけでは乾く。砂漠に揺れる瀕死の草のように。

疲れる事など構わない。疲れて寝台に横たわる夜、脇に己を抱き締め返す温かい体があれば。
泣こうが喚こうが、血を吐く程に叫ぼうが構わない。
その声に耳を傾け、時に諌め、時に叱咤し、時に並んで共に涙を流してくれる声さえあれば。

止まぬ慈雨のよう、他の誰でも無く、己だけを濡らし続ける温かい雨があれば生きていける。

お前にはあるか。祈る者、渇きを癒す者、温かい体。
戦い続けるお前だけを濡らす天恵の如き温かな慈雨。

その時部屋の扉が遠慮がちに叩かれる。
「ヨンさん」

外から掛かったその声に、注意しながら腕を抜く。
寝顔を確かめ柔らかな髪の上から額へ唇を落とす。

最後に音を立てぬよう窓の二枚の薄紗を引いて隙間を閉じ、足音を忍ばせて部屋を抜ける。

入口の扉前、振り返ればあの方の声がする。
いってらっしゃい。
ひらひらと振る小さな両の掌、明るい笑顔、靡く髪まで見えそうで。

唇の形だけで小さく呟き、扉の取手へ指を伸ばす。

行って参ります。

 

*****

 

「お帰りなさい」

眠っていたとは嘘だろう。侮られては困る。
奴は目許に薄らとした隈を残し、居間の王座で俺を出迎えた。
部屋の中に他の者の姿は見えん。
あの女も、南の島で身代わりの俺の脇を固め続けたあの男も。

「社長はオフィスに行きました。今回のロケの報告会議で。出掛けにヨンさんが俺と話があるって聞いて」
「ああ」
「ウンスさんは?」

その声に顎で今しがた出た扉を指す。
「寝ている」
「そうですよね。フライトも出発は早かったでしょう」
「ああ」
「座って下さい」

その声に、奴の向かいへ腰掛ける。
ふらいとだろうが報告会議だろうが関わりは無い。
互いにそんな事を訊きたいわけでも、話したいわけでも無かろう。
核心に迫る前哨戦代わりの肚の探り合いは要らぬ。
「ミンホ」
「はい」
「どうだった」

奴は単刀直入な問いに困ったように肩を竦めた。
「・・・すごかった」
「そうか」
「出発前に聞きましたよね。あなたにどれ程才能があっても、今のままじゃ俺の名前しか残らないって。それで満足ですかって」
「ああ」

「俺、見くびってましたよ。認める。あなたが残したのは視聴者やファンへのクレジットじゃない。
俺自身が絶対に超えなきゃいけない、高い壁を残された」
「壁」

俺の眸の前にも常にある。
見上げる程高く、天を突くよう聳え立ち、足場も手掛かりも見つからず、しかし超えねば向こうに行けぬ。
それでも超えて向うへ下りねば、此処で何かを失う事になる。
祖国、民、兵、王様。そして何より決して喪いたくない方を。

だから全ての爪が剥がれても、無理矢理にでも攀じ登る。
滑って落ち強か体を打ち付け、それでも再び立ち上がる。

そして成し遂げられた時にだけその向こうの高みに行ける。
其処に再び聳え立つ、一段と高く険しい壁。
喪いたくないから再び昇る。そんなものだ。
此処までと諦めれば終わる。苦しみは無いが諦めるしかない。
追い落とされ、大切な全てを喪う日に怯えて過ごす事になる。

「頼みがある」
「・・・怖いな。何ですか」
「腕が治れば、俺達を行かせてくれ」
「もちろんです。どこでも良い。俺に出来る事なら」

同じ顔のお前が、あの頃の俺の代わりに癒したいと願われるお前が、他ならぬ俺の存在を壁と思うなど真平だ。
それでは身代わりを買って出た意味も無い。
報せねばならん。俺が誰か。何故お前は懼れる必要が無いのか。
そんなお前は想像もせぬのだろう。ただ親身に俺を心配するよう問いを重ねる。

「国内ですか。それとも外国?でもパスポートが・・・」
「ぱすぽーとは不要だ」
「国内だと、これからも相当気を遣わせる事になるかな。ヘアスタイルを変えたくらいじゃごまかせないと思うし。
でも出掛けるたびに毎回サングラスなんて、嫌ですよね?」
「この国でも無い」
「え?ヨンさん、韓国人じゃないんですか?」
「違う」
「え?外国籍だったんですか?!じゃあ何でパスポートは」

俺の国、俺達の国。
王様が夢をその手で掴もうと、成そうと戦っていらっしゃる国は、韓国という名ではない。

「高麗」
「コリア?韓国の英語名ですよ」
「違う。高麗だ」
「・・・高麗、って李氏朝鮮の前の?700年近く前の国だ」
「そうか」
「そうか、って、ヨンさん」

向かい合う男に、言葉の意味は伝わらぬらしい。

俺の国。俺達の帰る国。俺達の成すべき事が待ち、俺達にしか成せぬ夢がある。
今も命を懸けて持ち場を守りながら、首を長くして俺達の帰りを待つ者がいる。

誰が代わりに戻ろうと、奴らに通じるとは思えない。
例え生き写しのこの男がチェ・ヨンの名を騙ろうと、奴らならば必ず気付く。

「お前のその腕が治る日。自由に動けるようになる日。頼みがある。
俺達を、ある寺の弥勒菩薩の見える場所に隠してくれ」

 

 

 

 

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