2016 再開祭 | 桃李成蹊・5

 

 

やけに硝子の多い外壁。
夜の中に浮かび上がる建物が表の光を集め、それ自体が光っているようだ。

建物の入口に男が懐から取り出した薄い板を当てた上、壁の釦に指先を押し付ける。
そこまでしてようやく開いた扉を示し
「どうぞ」

そう言って扉前から一歩退いた男の前を、頭を下げてこの方が通る。
「おはようございまーす!」
何故皆、朝も昼も夜も言うのだろう。お早うございます。
回廊を擦れ違う者たちが口々に言い、続いて俺に目を当てその場に立ち竦む。

「すごいですね。TVとかで見たのと同じ」

正面に光る壁に次々に映し出される顔を見つめ、この方が驚いたよう目を丸くする。
愉しいのだろう。本心では、彼方此方に走って行って覗き込みたいに違いない。
そんな心裡がありありと判るような表情で。

「ああ、これは社長の案です。自社アーティストを愛しているので」
愛している。その天界の言葉だけは判る。
何処まで本気か、まるきり冗談か。区別のつかぬ口調で男が笑う。
「ヨンさんが我が社と契約後は、もちろんウンスさんも出入り自由ですよ?」
「え」

今、心が確かに揺れたに違いない。
それが透け見える声色で呟き、この方はわくわくと紅潮した頬で俺を見上げる。
「ヨンアー」
「はい」
「自由だって!」
「・・・ええ」

先刻まで頑なに首を振っていたあなたは何処へ行ったか。諦めに息を吐いた時。

薄明りの回廊の先から聞こえた黄色い悲鳴。
咄嗟にこの方を背へ庇い、半歩前へ出る。
「え、キョジュンオッパ、何で?!」
「えええ!!!」
「何で?何繋がり?!」
「オッパー!!大ファンなんです、握手して下さい」
「やだ、本物の方がリアルにかっこいい」
「動画いいですか?ファンダムに載せてもいい?ダメですか?」
「レッスンあがりとか最悪!髪ぐちゃぐちゃだよー!!」
「あたしメイク適当過ぎなんだけど!」

いきなり四人の若い女が口々に叫びながら駆け寄って来て、俺の周囲を取り囲んだ。
「ちょっ、ちょっと!待ちなさい」
後から慌てて駆けて来た数人の内、年嵩の女人が慌ててその女達を引き剥す。

「自覚持ちなさい!あんたたちだってアイドルなのよ、いくら社内でも」
「だってまさか会えるなんて思わなかったー!事務所も違うし」
「そうですよ、俳優さんだもん。歌番組じゃ会えないでしょ?MVに出てもらうのも、夢のまた夢なんだし」
「やばいよね、今の反応って素でペンだよねー!」
「あーん、写真撮りたいよー!!」

何故だ。確かに街でも黄色い声は掛かる。
掛かるが、此処まで側に近寄られた事は無かった。
女達は無遠慮に俺と距離を詰め、横のこの方はその勢いに唖然とし唇を半開きに眺めている。

「とにかく!!今日はもう帰って。ここで会った事、間違っても」
「わかってまーす。インスタにアップするな、でしょ?」
「違う!インスタグラムもラインもカカオもバンドもフェイスブックも、ヴィングルもツイッターもサイワールドもタンブラーも全部よ!
ファンダムもファンカフェもとにかく絶対。破ったら契約違反なの、社内で見聞きした情報は漏らしちゃダメ。判ってるわよね?!」

年嵩の女の厳しい声に、黄色い声を上げていた女らが萎れたように頭を垂れる。
「はーい」
「あーあ、せっかく会えたのにー」
「絶対ばらしたりしないのにな」
「こんなチャンス、もうないかもしれないのにい!」
「ちょっと、この子たちをパーキングに連れてって」
若い女らが不満げに呟く中、年嵩の女は周囲の若い者へ声を掛ける。
その指示に慌てて別の若い男女が女らを急かす。

「行こう、もう帰らなきゃ」
「つまんないの。もう少しお話したかった」
「オッパ、ファイティン!!」
「新しいドラマ絶対見ますねー!!」
「そうだー!海外ロケ頑張って下さいね!アジャアジャ!」
急き立てられるよう若い女たちは華やかな声を回廊に響かせ、先刻俺達が踏み入った扉とは違う方へ消えて行く。

「すみません、デビューしたてで、怖いもの知らずで」
最後に残った年嵩の女がそう言って、俺に深々と頭を下げた。
「やっぱりケガって、ただの噂だったんですね。良かった、大切な撮影前ですものね。安心しました」
「・・・は?」
女の声に、この方が短く声を返す。

「ケガって」
「ああ、腕を折ったとか脚を折ったとか。証券街のチラシレベルです。却って下らない事をお伝えして済みません」
慌てたように取り繕った笑みを浮かべ、相手の女が首を振ると最後に俺へ深く頭を下げた。
「お会いできて光栄でした。またどこかでご一緒出来たら、よろしくお願いします」
「あの、パク女史。この方は」
「キョジュンさん、社長が報告を聞きたいって、オフィスで待ってる」

年嵩の女はそう言うと、先刻の女らを追うように足早に回廊を遠ざかって行く。
誰も彼も、何もかも、俺の意思などどうでも良いらしい。
男は俺達を連れ込んだ事を明らかに悔いた様子で息を吐く。

「ヨンさん、ユ・ウンスさん。申し訳ないですがひとまず僕のオフィスで待って頂いて良いですか。ご案内してすぐ戻ります」

虎穴に入らずんば虎子を得ず。
此処まで引き摺り廻されて、獲物も無しに虎穴を出る訳にはいかん。
肚を決めて頷いた俺を先導するよう、男は薄暗い回廊を歩き始めた。

 

あの騒ぎの後だからだろうか。
通された部屋内は、外の騒ぎが嘘のような静寂に満ちている。

高い窓に確りと降ろされた黒い目塞ぎの桟が外の光も音も遮る。
体の埋まるほど柔らかな長椅子に沈み、小さな頭が俺の肩に乗る。
「つっかれたーー。What a dayって感じね」
「わったでい」
「なんて日だ!」

頭を凭れたままで叫ぶと、長椅子に掛けた俺の膝の上に軽い体ごと、勢い良くこの方が落ちて来る。
「ヒールのせいで足は痛いし、ご飯は食べられなくてお腹と背中がくっつきそうだし。
どこかに出掛ければみんなが誤解する。あなたはあなたなのに、誰もそう思ってくれない」

先刻もだ。
あの男は俺に血縁云々と、妙な事を尋ねた。
あの女ら一行は、俺を誰かと間違えた。
街を歩く度に纏わりつく視線は全て人違い。

「俺は、誰に似ているのです」
膝枕から流れ落ちる髪を労わるように撫で、穏やかに訊く。
お喋りなこの方が言いたがらない程、そしてあの女らが、町を行く者らが騒ぐ程。

それ程厄介な誰かに似ていると言う事なのだろう。
そうであれば腑に落ちる。
この方がこんぴゅーたを覗き込み、毎晩唸る理由。
町を歩く度に向けられる好奇の視線。
見知らぬ男が突然訪ねて来て、遠回しに駆け引きを持ち掛けた事。

「皆の知る者ですか」
穏やかな声が功を奏したか。
この方は興奮する事もなく、髪を弄ぶこの指先を振り払う事もない。
ただ本当に疲れたように膝の上で瞳を閉じたまま、横顔でゆっくり頷いた。

「・・・うん。それも韓国だけじゃなくて、中国もタイもフィリピンでも、日本もアメリカも南米もヨーロッパでも・・・とにかく外国でも」
「誰です」
「知らないあなたには、全く興味ないだろうけど」

その時感じる扉外の気配。細い肩を抱き起こし己の横へ座らせ直す。
次の瞬間扉を開け、先刻の男が部屋へと入って来た。

「ヨンさん、ユ・ウンスさん、お待たせしました」
扉口で会釈した男はしかし部屋内には踏み込まず、俺達を見ると浮かぬ顔色で言った。

「一緒に来てくれませんか。社長と直接会って頂きたいんです」

 

 

 

 

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