2016 再開祭 | 神技・結伍(終)

 

 

呆然と鏡を覗き込むこの顔か、それともこの髪か。
何が可笑しいのかこの方は、瞳の縁に涙を溜めたまま笑い転げる。

明るい笑い声もその笑顔も愛おしい事には違いない。
しかしその理由如何では、黙っている訳にもいかん。
「・・・楽しいですか」
「え?」

乱暴にその髪紐を毟り取り、あなたに向けて問うてみる。
「楽しいですか」
「やだ、そんな怖い顔しないでよ。ふざけただけだってば」
「過ぎます」
「ヨンア、ごめんって」
申し訳なさげな顔を装いながら、口許は込み上げる笑いを噛み殺すように震えている。

「でも可愛かったわよ?惚れ直しちゃった」
この眸から瞳を逸らして言う横顔を、膝の上からじっと見上げる。
「イムジャ」
呼び声に戻った視線がこの眸にぶつかると、あなたは堪え切れぬようもう一度噴き出した。

「可愛すぎて、思い出しただけで・・・ああ、お腹痛い。
そんなまじめな顔されると、なおさらギャップが」

腰を抱えていた手を断りなく小さな頭へ伸ばし、逃げられぬよう強く押さえてこの唇へと近付ける。
予想もしなかったのだろう強引さに瞳を閉じる事すら忘れたこの方は、無理な姿勢で礼儀知らずの口づけを受け入れる。

一部始終が見えるのは、俺もこの眸を閉じないからだ。
長く重ねたその後に、ようやく頭を押さえつけた掌を緩める。
この方は忘れていた息を思い出したか、まるで水から上がったような激しく短い息を吐く。
「・・・急に何!」
「煩いので、黙らせようかと」
「だ、黙らせるって、だったらもっと優しくしてよ!」

断りもなくひとの髪を兎にした方とは思えぬ要求に呆れ、そのまま腹に力を籠めて膝枕から起き上がる。

体の芯はふらつく事もなく、病を得る前と何ら変わらん。
寧ろこの方と四六時中共に過ごした三日のお蔭で、以前よりも軽く感じる。
起き上がって寝台の上に向かい合い、この方の瞳を覗き込む。
覗き込んだまま顔を近づけ、次は正面から堂々とその唇を奪う。
此度は予想していたか、鳶色の瞳は淑やかに閉じる。

「さて」

二つの鼻先の触れ合う距離。
離しがたい唇にもう一度触れられるほど近くで囁くと、その睫毛が上がる。
「笑い物になるのは勘弁です」
「分かったってば。もう笑わない」
あなたは紅い唇を擦り合わせ、本当に済まなげに少し俯いた。

「・・・痛いですか」
「はい?」
息を交わす程の近さ、指先で温かな唇に触れる。
「髭が」
「・・・ああ、ううん。平気。痛くない」
「痛いからきす、ができぬと」
「だってそう言ったら、頑張って早く良くなってくれるかなと思って」

口づけするなら髭を剃らせろ、剃らせるために元気になれ。
暗にそう言われていたわけか。
成程。己は鼻先に口づけという骨を吊るされ、治ろうと走った犬か。

治るまで、髭を剃るまでと辛抱を重ねて馬鹿を見た。
俺は親指の腹で、この数日の間に更に不揃いに伸びた顎先の髭を弄る。
「ならば遠慮はしません」
そう言ってこの方の両肩を引き、そのまま寝台の上へと柔らかく倒す。
絹の分厚い布団の上、体を弾ませたあなたが高い声で俺を制す。

「ヨンアちょ、ちょっと待って!ここ典医寺だから!」
「お静かに」
「お静かにって、何でそんな冷静なのよ!静かにしたら何かする気?」
「はい」
「変な気起こさないでよ?私の職場なんだから!」

組み敷く格好になった俺の下。真赤な顔であなたが懸命に言い募る。
「変な気」
小さな体の細い腰を跨ぎ、両側から膝で押さえて逃げ場を奪う。
そうして自由を奪われたあなたを、此度は上から静かに見おろす。
「ヨンア、ちょっと」
「変な気とは」
「待って、落ち着いて?ほらヨンアもまだ入院中だし。今は外もこんなに明るいし、ね?」

慌てたような早口で、あなたの目が窓外の高々と明るい陽を示す。
「暗くなれば良いのですか」
「タイム!本気でちょっと待って!隣の部屋にみんないるんだから!」
「問題無い」
「やめてよ!落ち着いてってば」
「準備は出来ております」

白い肌を耳先まで朱に染めて胸を押す小さな両掌を握って導く。
「我慢なりません。早く」

瞳を固く閉じたまま導かれた処の手触りに、あなたは驚いた瞳を開く。
この顎を覆う、伸びた不精髭。
其処に触れ、俺の眸を見つめ、そしてもう一度ゆっくりと髭を撫で。
「剃って下さい」

低く笑う俺の口許。
不揃いな不精髭を、導いた爪先が思い切り引張る。
「信じられない!」

引かれた拍子に腰を押さえた膝が緩む。
あなたは体を返して俺の下から逃げ、寝台端で飛び起きた。

「こういうの、本当にやめてよね!笑えないんだから!」
「病人には労わりを」
「なーにが病人よ!こんなふざけたこと出来るくらい元気なくせに!」
「ならば何故、役目に戻ってはならぬのです」
「1か月休めるからよ!一緒にいられる貴重なチャンスなんだから!」
「では共に」

あなたが飛び起きた寝台橋。
素早く寄ると尚も暴れ回りそうな体を腕を伸ばして抱き竦める。
宥めるように静かに揺らし、緩やかに流れ落ちる髪ごと細い背を叩く。

「鍼より細い空洞の針。王様にはしけんかんと、硝石丘の件のお願いに。
そして小さな木杓子を」
「・・・病人だったくせに、よくまあ細かく覚えてるわね」
「はい」

あなたの声は聴き洩らさない。忘れない。例え小さな息一つでも。
「一月もあれば、全て叶えても釣りが来ます」
「そうね」
「ですから」

だからもう良いだろう。我慢ならんといったのは嘘ではない。
「もう帰りましょう」

帰ろう。俺を案じるあなたの想いの溢れる、あの薬草を抱く庭に。
近付く夏の香の風が木々の葉を揺らし、盛りの花が咲き誇る宅に。
誰の耳目も気にせず笑い合い語り合い、抱き締め合える宅に帰ろう。

もう少しあなたの膝枕で眠りたい。抱き締めて朝寝がしたい。
髭を剃って思う存分に口づけを交わしたい。未だ病の振りをして。

「じゃあ最後に診察して、キム先生も許可したら帰ろう。
食事制限は少しずつ解除してくけど、薬湯はもうしばらく続けてね」

途端に俺の主治医の顔になったあなたは、大きく笑んで頷いた。
「飲ませてくれますか」
「そうね、考えといてあげるわ。ふざけたイタズラしないなら」

腕の中から逃れると、あなたは軽やかに扉まで小走りに寄る。
こんな言葉の端でも、あの男の耳に届けば。
侍医の薄笑いが瞼を過る。
聞かれたが最後、奴が皮肉も揶揄も口にせず、素直に黙って帰す訳がない。

万一邪魔立てすれば、蹴り飛ばしてでも帰る。
扉で待つあなたが伸ばした手を軽く握り、腹に力を籠め、俺は眸の前の扉を思い切り開いた。

 

 

【 2016 再開祭 | 神技 ~ Fin ~ 】

 

 

 

 

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