2016 再開祭 | 神技・後篇

 

 

流石にいつものような豪快な開け方ではない。
出来る限り気配を殺し、扉が軋みながら僅かに開く。

逆光の中、扉より滑り込む細い影。
足を忍ばせこの寝台へ近づく息遣い。

狸寝入りの瞼が震えぬように、掛布の中に深く息を吐く。
あなたの温かな手が伸びて来る。
それが額に触れ、優しく頬へと滑る

頃合いを見計らい、ゆっくりと眸を開く。
息の届く程近い鳶色の瞳と組み合う視線。
心配そうな色を湛えていた瞳が、大きく見開かれる。
「ごめん、起こしちゃった」
「いえ」

起きていたとは言えない。けれど起こされたわけでは無い。
仔細は告げずに眸だけで笑むとあなたはそのままこの頸を確かめ、最後に細い両指で両手首の脈を取る。
「うーん、念には念を入れて。朝もう一度、キム先生に確かめてもらおう」

病と判っているからか。
あなたは不安な様子を見せぬよう取り繕った笑みを浮かべ、寝台の脇へ据えた椅子へと腰を下ろす。
「まだ夜よ。ゆっくり寝て」
「あなたは」
「私は主治医だから。ここにいるわ」

まさか典医寺の診察部屋で、寝台の横に引き摺り込むわけにはいかん。
「腎が悪いと」
俺が尋ねると、この方は困ったように項垂れた。

「うん。キム先生に聞いた?」
「はい」
「一緒にいたのに、気付くのが遅くなっちゃった」
「あなたのせいでは」
「ううん。ヨンアの体に起きる不調は私のせいよ。食事も体調管理も。もっと気を付けるべきだった」
「イムジャ」

だから気を付けねばならん。小さく咳をするだけでも不安にさせる。
息と気を整えていればこんな事にはならん。大概の毒など抑え込める。
気を抜いた己のせいだ。しかしそう言えば、またそれを気に病むのがこの方だから。
「絶対に寝ていろと」
「そうよ。最初はお手洗いも要介護。しばらく尿検査も必要だし」

そう言うと、枕に預けたこの髪を細い指先が撫でた。
「髪がだいぶ伸びたわね。うっとうしくない?もう少し元気になったら切ってあげようか」
「いえ」

首を振ると不満げに鼻を鳴らして、その指先が口許の無精髭に移る。
「じゃあ髭をそってあげる」
「いえ」

あなたのその手は俺の髪だの髭だの、そんな些末事の為にあるのではない。
再び首を振った俺にあなたは少し眉を顰めて、訴えかけるように耳許で囁いた。
「だって、キスする時に痛いんだもの」
「・・・お願いします」

俺の答に満足気に頷くと、この方は優しく言った。
「じゃあ起きられるようになったら、お天気の良い日に。だから早く元気になって、ね?」

その声にゆっくりと眸を閉じる。そして深く息をする。
眠りと調息。それで良くなるなら明日にでも剃って頂ける。
剃ればもうあなたの柔らかな肌も唇も、傷つける事は無い。

この方をこれ以上案じさせぬように。心も体も痛ませぬように。
素直に眸を閉じた俺の額に、その唇が降って来る。

「おやすみ、ヨンア。ぐっすり寝てね」

眸を閉じたらあなたが見えない。それだけが淋しい。
その淋しさを救うように、この手を温かな手が握る。

 

*****

 

「ウンス殿」
真夜中の診察室。 扉の外からの囁くような声に気が付いたのは、何も音がしないから。
久し振りの徹夜の看病、急患がいない診察室はこんなに静かなんだって思い出した。

あの頃は考えられなかった。
心臓外科の頃は目の離せない重篤な患者や、ひっきりなしに搬送される急患がいた。
整形に移ってからはビジネスと割り切って、輪郭手術を執刀しても当直に任せて、さっさと帰宅した。

握ってたこの人の手をそっと離しても、静かな寝息が変わる事はない。
深い呼吸。本当に体調不良で、こんな呼吸が出来るのかと思うくらいしっかりした息。
布団の上からも胸が規則的に上下してるのが、軽い触診で確認できる。

それを確かめてから、抜き足差し足でベッドを離れる。
「何」
息で答えると先生はベッドでぐっすり眠るあの人の姿を確かめてから、視線で廊下の先を差す。
扉を少し開けたままで、2人で静かにそこまで歩く。
部屋から離れた廊下の突き当たり。
先生はようやく息が楽になったみたいに、はぁと大きく呼吸した。

「あの鋭いチェ・ヨン殿が相手では、なかなかに気を遣います」
「そうね、起こしたくないから」
私が頷くとにっこり笑って、先生は頷いた。
「起こしたく無いお気持ちは判りますが、テマン殿の粥が届きました。医仙には声を掛けないでほしいと」
「・・・もう?!」

お願いしたのは3、4時間前。朝になってからタウンさんが作ってくれると思ってたのに。
ってことはあの後にすぐ鶏をしめて、お粥にしてくれたのよね。
きっと鶏をしめてくれたのはコムさん。
コムさんじゃなきゃ、夜にこんなに手早く準備はできないはず。

「煮込みが浅いので、召し上がるまで火にかけて欲しいと。
宿直の医官がすると申し出ましたが、トギが離れでやると、テマン殿と共に離れに行きました」
「・・・みんなに悪いことしちゃった・・・」

肩を落とした私に、不思議そうに首を傾げて
「何がです」
キム先生が聞き返す。
「夜遅くお粥をお願いして、テマンも出来上がりを待たせて、トギにも手間かけて、みんな巻き込んじゃって。
私が最初に頼む時間を考えれば良かったのに」
「馬鹿馬鹿しい」

サラリと言われた一言に思わずカチンと来て、キム先生の顔を睨む。
「何がよ?」
私の尖った声にも動揺せず、先生は涼し気に笑った。
「ウンス殿とチェ・ヨン殿の周囲の方々が、そんな事を気に病むと本気で思われているなら馬鹿馬鹿しい。
そう正直に言ったまでです」
「あのねえ。私はあの人の妻だし医者だからいいけど、みんなにはみんなの生活もあるし、予定もあるの。
そういうのを全部狂わせたら、申し訳ないと思って当然でしょ?」
「そういう考え方がです」
「はい?」
「自分は良い。でも相手には悪い。そういう線を引くところがおありです。ウンス殿も、チェ・ヨン殿も。
しかし人が一人で出来る事には限りがあって当然です。それを超えれば障りが出ます。心身の何処かしらに」
「それは」
「ましてウンス殿はチェ・ヨン殿のように気を操る事も、呼吸で整える方法も御存知ない。
ウンス殿がチェ・ヨン殿の分まで背負えば、それを気に病んでチェ・ヨン殿が無理をする。悪循環です」

叔母様にも前に言われた事がある。背負い過ぎる、お互いに。
出来ない事ばかり目についてイライラする。
もっとあの人に何かしてあげたいって、気持ちばかりが焦る。

「ウンス殿にしか出来ぬ事があります。それを考えて下さい。他の事は周囲の者が何でも協力します。
誰よりそうしたいのはチェ・ヨン殿です。頼るという事を覚えられた方が良い。頼ってこそ頼られる」
「先生」
「頼られれば嬉しいものです。己の力を信じ認めて下さっていると言う意味ですから。頑張ろうと思うものです。
うまく頼るのも、力のうちです」

先生は優しく言うと
「朝になればトギが粥を運んで来るでしょう。その時は詫びではなく、礼を言ってあげて下さい」
「・・・ありがとう、先生」

早速の私のお礼に笑って頷いて、先生は夜中の廊下を歩いて角を曲がって消えた。

 

 

 

 

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