2016 再開祭 | 閨秀・拾陸

 

 

隊長の異変に気付いているのは俺だけか。

征東行省から逃げ出しかけた徳興君を捕らえ、既に受けていた密命通りに征東行省に引き渡したまでは良かった。
総てが隊長の計画通りに進んでいた。

隊長が康安殿で、王様の御前で剣を取り落とすまでは。

手が滑った。偶さかだ。普通の兵ならそれで通じるだろう。
俺とて疑う事も、深読みする事も無かっただろう。

しかし隊長に限り、一度その手に握った刀を落とすなど有り得ない。
それだけは絶対に言える。何故なら俺達はあの人を知っているから。

医仙がいらっしゃる事でお疲れが溜まった。
同じ部屋を使われている事で心労が祟った。

他の兵ならそんな言葉を、無理にでも信じ込もうとするかもしれん。
しかし俺には通用せん。何故なら俺はあの人をずっと見て来たから。

何処かがおかしい。ただそれだけを感じる。
何なのかはっきりと口にも出せず、思い当たる事も無い。

けれど何処かで声がする。絶対に隊長から目を離すなと。

悪い勘ほどよく当たる。考え過ぎの空回りであってくれれば。

 

隊長の顔色が冴えないと思うのは俺だけか。

医仙が新入りとして兵舎に入って数日。
隊長が副隊長と共に徳興君や奇轍、元の断事官の動向を探るために駆け回っているのは判る。

けれど本当にそれだけが理由なのか。

この間落とした槍を突き付けられた素早さだけを見れば、普段と変わる事のない動きだった。
これほど不安な理由が何だと問われれば、ただの勘だとしか言いようがない。

それでも何処かが、明らかに違う。
いつもの隊長ならどれだけ誤解しようと、俺が医仙の手を握る場面を見かけようと、殴り飛ばす事はあっても足で槍を拾う事だけはない。

怒っていたんだ。虫の居所が悪かったんだ。考え過ぎだ。
他の奴ならそう窘めるかもしれん。
しかし隊長が戦場で自分の命を守る武器をどう扱うか、教えてくれた事を俺は忘れん。

あの人はその大切な武器を粗末に扱う事は無い。絶対に無い。
だとすればついうっかり足が出たのか。偶然か。

確かに他の奴ならそんな事もあるかも知れない。
しかし俺の隊長に限ってそんな事はあり得ない。

何処かが変だ。だが考えても答は出ない。上手く説明することも出来ない。
だから副隊長に相談する事も、尋ねる事も出来ない。

単なる俺の考え過ぎだったと、笑える日を待つしかない。

 

隊長が俺の目を見てくれないのはなんでだろう。

医仙が迂達赤に来たから嬉しくて、俺との時間が面倒なだけならいいんだ。

隊長が笑っててくれるなら、相手が誰だって俺も嬉しい。
それが隊長が守ろうと思う医仙だったらなおさら嬉しい。

だけど隊長がおかしい。何かを必死で隠そうとしてる。俺からも、副隊長たちからも。

俺への態度が変わったわけじゃない。声も言葉も。
だけど目を見てくれなくなった。それだけが引っかかる。

隊長はいつも教えてくれた。言葉じゃなく相手の態度から肚を読め。
読んで先回りして、そして事態に備えろって言ったのは隊長だ。

それなら俺が今感じてるこの気分はなんだ。
いつもと変わらないはずの隊長から感じる、この変な気分は。

笑ってるし、医仙の茶もうまそうに飲んだし、怒鳴りもしない。
トルベが兵舎の階段で転げ落ちそうな医仙を捕まえた時は怒ってたけど、本気なわけじゃなかった。

本気で怒ったんじゃないなら、なんで足で槍を蹴り上げて拾ったんだ。
なんでいつも通り呼んでくれても、俺の目を見て話してくれないんだ。

まるで雨が降る前の真っ黒い空みたいだ。いっそ雨が降ったら分かる。そうか、雨の前だったんだって。
だけど今の隊長をどれだけ見ても、分厚い雲は見えるのに、その向こうに何が隠れてるのかが分からない。

早く晴れればいい。雲が切れて日がさしたら分かる。
なんだ、雨も降らなかったじゃないかって思えるのに。

 

櫛すらも持てなくなった。
あの方も明らかに、俺の異変を嗅ぎ付けている。

それでも小さな手を握り、横に居られるだけで良い。
今はそれだけで良い。それ以上は望まない。

迫っているのは何なのか。それは俺にも見当がつかん。
アン・ジェに伝えられた師父の最後の言葉だけが過る。

剣が重い。両手でも持てない時がある。潮時だ。最後の舞台を探す。

今、俺も其処まで重いだろうか。両手でも持てぬ程に。
答の出ん禅問答ほど苦手なものは無い。

判っている事は一つだけ。俺には護りたい方がいる。守らねばならん奴らがいる。
倒れる事は赦されず、倒れた時には死が待つのみだ。

この命だけで済むならばまだ良いが、決してそうはならんだろう。
俺が倒れればあの方を護れない。王様も王妃媽媽も兵達も誰一人。

征東行省への働きかけ。攻め込むのか、密約を交わすのか。
攻め込むとすればあの重臣らはその王様の御英断に頷くか。

この後の徳興君、奇轍の動き。断事官はそれに同調するかせぬのか。
先が見えない以上、その山をチュンソクだけで乗り切るのは無理だ。

明日も明後日も、人を殺めることになる。
その者にも親や子があることを、一瞬たりとも考えてはならぬ。
殺めた者たちの命をお前が背負っていくことになる。

師父のあの時の声に、迷い無く頷けたのは何故だろう。

アン・ジェから又聞きした言葉とは違う。この耳であの日、師叔から直接伺った声。
父上の四十九日の法要後の早春、月桂樹の香る庭の中。

師父の声。影からでも香れば、敵に居所を知られる事になる。
だから影に徹した。己が表に出る必要など無かった。
影に徹して過ごせれば、起きる事柄は目の前を通り過ぎる幻だと思えれば。

何処で足許を踏み違えたのか。
いつから心は弱くなったのか。
あの方が傍に居る今こそ、今までのいつより強くならねばならん。それなのに。

迂達赤兵舎の裏庭の隅、汗をかく掌を握り締める。

俺は一体いつから。そして一体いつまで。

 

 

 

 

2 件のコメント

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    今まで 考えずにいたことが
    ウンスの生き方を見てると
    段々 考えずにいられいかな
    殺めた者の命を背負うって…
    重いよね 重たいよ
    考えてしまったら 手も動かなくなります

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    お話を読んでいると、貴女の書かれた最初の頃の話が読みたくなります。私は、ヨンがウンスと再会して帰京するまでの話がとても好きでした。何度も読み返していました。よかったら、少しの間でも公開してもらえませんか?お願いします。

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