愛別 | 2015 summer request・ビアガーデン

 

 

【 愛別 】

 

 

「飲ませてあげたいなあ」
典医寺の部屋の中、その声に眸を上げる。

夏の折り返しを過ぎ、雲間より射す陽も今日は幾分弱い。
卓向うから残念そうに眉を顰め、此方を見る瞳に眸で問えば
「こんな暑いんだもの。たまにはソジュとかマッコリじゃなく、あなたにメクチュを飲ませてあげたいのに」
首を振るウンスは悔しそうに、赤い髪を細い指へ巻きつけながら
「全然、作り方が思い浮かばないのよ!!」

ああと思う間もなく髪を掻き毟りそうな指を、寸での処でチェ・ヨンは慌てて握り締めて止める。
「何であれ構いません。飲めればそれで」
その声にウンスは手を振り払い
「絶対そう言うと思ってた。張り合いないなあ。でもね、私が悔しいの! 粉砕、加水、加熱、冷却。
この手順は間違ってない筈なのよ。 冷却の時点で発酵するはずなの。糖化してれば、でんぷん質が。
酵母ダネがないから?でもビール酵母の作り方なんてわかんない」

不思議な言葉を並べたて心底悔し気に首を振るウンスに何を伝えて良いか判らず、ヨンは逡巡しつつ呟いた。
「めくちゅ、とは、そんなに大切なものですか」
「大切って言うわけじゃないけど、でも」

ウンスは少し悔いたように言葉を切って、僅かに俯いた。
「でも、帰る前に、少しでも」

その声にヨンは静かに視線を外す。
ウンスの本懐を遂げ、己の名を懸けた誓いを守る。
もう直ぐにその日がやって来る。それで良い。

その日を互いに長く待ち望んでいた。
叶うならそれで良いと、ヨンは外した眸を閉じる。

 

*****

 

「・・・何をしていらっしゃるのです」

あの日以来、夏の晴れ空を見ぬ。今日も空には重い雲が垂れこめていた。
蒸し蒸しとした夏の暑さが肌を覆うように張り付いて、息が苦しいほどだ。

典医寺の部屋、この方は机に向かい、懸命に薬研で何かを擂っていた。
暑さと湿気で、額に薄らと汗を浮かべた白い顔を上げ
「あ、今ね、大麦を粉にしてるの。どうにかメクチュを」
「そんな事は」
「うん、でもね」

この方は首を振って卓の上の薬研へと向き直り、此方を見ぬように
「でも、ほら。いろいろあったから、お礼を、せめて」
その横顔が何処か無理をしているように見えるのは、己の欲目か。

そんなはずがない。帰りたかったはずだ。
毎夜魘される程に苦しく、楽しい事もなく、ただ俺に担がれ無理矢理に連れて来られた高麗で。
そして俺も、帰して差し上げねばならぬ。
高麗武者の名を懸けた誓いだ。

あの天の門の前、天界の大きな白い大仏の前で、この口が誓った。
高麗武者の名に懸け、王妃媽媽の治療が済めば必ずお返しします。

幼子のよう泣きべそをかくこの方をあの門へと、一歩ずつ追い詰め。
怯えて震える小鳥のような小さな細い腕を、逃がさぬよう握り締め。
花の香の髪を、門からの激しい光と風で乱すこの方の瞳を覗き込み。
ただ王命を守ろうと、無理矢理に連れて来た。そして守ろうと、無理矢理にこの地へ留めた。
罰が当たった、天の方になど手を伸ばすから。
あの時刺された傷の痛みなど、数にも入らん。今の心の痛みは、受けて当然の己への天罰だ。

青い空は見えず、陽射しも見えず、ただ暑さで息が苦しい。
俺は此方を見ぬままのこの方を残し、静かに典医寺を出る。

 

メクチュが作りたい。どうしても作りたい。
嫌な思い出ばっかりじゃ悲しいもの。この人に飲んでほしい。
冷たくするのは無理かもしれないけど、そんな贅沢言わない。

ただ来年の夏、ああ医仙と飲んだなあって思い出があったら。そんな思い出があったら楽しいじゃない?
私だって来年の夏に友達と、同僚と、もしかしたら新しい彼と、ビアガーデンに行って思い出すかもしれない。

ああ、変な体験しちゃったな、何だか長い長い夢みたいだった。
とても不思議な人に逢った。背の高い、鎧を着た、あの大将軍、チェ・ヨンって名前の人に。
黒い瞳の、黒い髪の、大きな手の、低くて優しい声の。
いつも隠れてるのに、私が呼ぶと必ず此処ですって返事が返る、とても不思議な人に逢った。
そんな風に思い出すかもしれない。

あの世界で。
そうよ。もう苦しい思いなんてしなくていいのよ。目の前で誰か斬られたり、死んだりする事もない。
新しい彼と。
そうよ。帰って江南に個人病院を建てるんだもの。気前の良い、懐の広い、そんな出資者がいるなら。

どっちがほんと?

そこにいるあなたがいつも黙って見守ってくれる、チャン先生が漢方や医学を教えてくれる世界。
教科書でだけ知っていた恭愍王と魯国公主がお二人で寄り添う、考えた事もなかった手作りビールを作ろうとしている今の世界。

あの光る門をくぐってその先にある、慣れ親しんだ、そして嘘と見栄と外見ばかりを考える世界。
自分がしたい事じゃなく、他人の視線やジャッジを気にして自分をだましてより良く見える事に手を伸ばすような、あの世界と。

どっちにいたい?

新しい彼に出会って、個人病院開設して、金持ちになって、他人に羨ましがられながら暮らして行きたい?
それとも電気もガスも水道もエアコンも治療器具も薬も、何もない、ないない尽くしのこの世界で暮らす?

それでも今はあなたにメクチュが作りたい。何もわからない。でもそれだけは本心。
どうすればいいのかな。まずは酵母よね。

 

*****

 

今にも泣き出しそうな真黒い空の、夏の夕刻。
「医仙が呼んでいらっしゃいます」

康安殿の衛から戻った途端にトクマンに伝えられ、押取り刀で典医寺へ駆ける。

回廊を抜けるこの脚がもどかしい。
駆けながらただ己へと言い聞かす。

何かがあったはずがない。
康安殿にいる間、奇轍の話も徳興君の話も上がってはいない。
典医寺で万一何か起これば、真先に俺へと報せが来るはずだ。
何かがあったはずはない。
何かがあれば、あの方本人から呼び出しが掛かるはずがない。

遠くで鳴り出した雷音にこの指先が痺れだす。
時折雷光が光る黒い空の下、あの方へ駆ける。

「あー、来てくれたんだ」

勢いのまま扉を押し開いて駈け込む薄暗い部屋内、此方の想いなど全く知らぬげにこの方は呟いた。
「・・・お呼びですか」
「そんな急いで来てくれると思わなくて」
「何か」
「うん、メクチュが」

真暗な窓の外、雷鳴が近くなっている。蒼白い雷光がしきりに瞬く。
「・・・酒か」
「え?」
「酒の話で、走らせたのですか」
「そういうわけじゃなくて」
「では何です」
「それは、ただ」
「ただ」
「ただ、あなたに・・・」

その瞬間、黒い空を切裂くような蒼白い稲妻が疾る。
光と轟音とに声にならぬ悲鳴を上げ、この方は床へしゃがみこむ。
「大丈夫ですか」
大きく駆け寄り、床にへたり込む細い肩に手を掛ける。
この方は両手で耳を塞いだまま、無言で大きく首を振る。
「びっくり・・・」
「かなり近い」
「嫌い」

隊長。言われてしまいました。この方は雷がお嫌いだそうです。
江華島への途で遠雷に照らされ、静かな横顔を見せていたのに。
恐らく遠かったからでしょう。近くに寄れば嫌いなのでしょう。

「直ぐに去ります」
細い肩から手を退けて、しゃがみこむこの方へ説く。
「うん・・・」
「暫し、御辛抱を」
「うん・・・っ!」

この方が頷くと同時に、窓の外が再び真白く光る。
その稲妻と共に突き上げるような地響きに、細い肩が震える。
「・・・もういや」
「暫し」

直ぐに去ります。直ぐに去りますから、もう暫しの間だけ辛抱を。
叩きつけるように降り出した大粒の雨音と、鳴り止まぬ雷鳴を聞くともなく聞きながら、俺は固く眸を閉じた。

 

*****

 

「今晩、何か予定ある?」
昨夜の豪雨が嘘のようだ。
晴れ渡った空、抜けるようなその青さはしかし、この間までの真夏の青とも、白い入道雲の映える濃さとも違う。
少しだけ淡い、この先訪れる秋を教えるような色。

季節を跨いだ。あの雷雨と共に。
こうして別れの日は近付く。
その日を待ち望んでいるはずのこの方は、今日の空のような晴れやかな笑顔で問うた。
「・・・いえ」

首を振ると嬉しそうに頷き
「じゃあ、飲みに行こう!付き合ってくれる?」
そう言って俺に首を傾げて見せた。
「・・・はい」

酒など飲む気にはなれん。それでもこの方に、無断で典医寺を抜け出されるくらいなら。
そう思い頷いた俺に、
「じゃあ、仕事が終わり次第迎えに来てね」
この方はそう言って手を振った。

 

「もう良いのですか」
「え?」
早い夕刻。久々の晴れ間のお蔭で空はまだ明るい。
向かい合い盃へと酒を注ぎながら問う俺に、この方は目を丸くした。
「めくちゅ、とやらは」
「よく覚えてるのね」

感心したように頷くこの方の声に、肚の気が抜ける。
あれ程飲ませたい、別れる前にとおっしゃっていた。
薬研でしきりに何かを擂っていた。それでもう良いか。
それほど簡単に捨てられるものだったか。その程度の心無い口約束だったのか。

「あのね、あれは、焦らないで作る事にしたの」
「・・・は」
この方の続く屈託のない声に、盃から眸を上げる。
「冬になれば気温が下がって、作りやすくなるかもしれないし。
何度も試せば、酵母の作り方も、わかるかもしれないしね?
大麦の麦芽部分を粉にして、パンみたいに焼いて、それを種にして培養してみたっていいんだし。
発酵ならパンよ。イースト菌はある。成功すれば、来年の夏は飲めるかも。
なあに、そんなに楽しみにしてくれてたの?飲めるなら何でもって言ってたから、焦らなくていいやって思ったのに」

判らぬ、そのぱん、やら、いーすと、が何なのか。
判るのは、今のこの方の言葉が、嬉しい事だけだ。

冬になれば。来年の夏は。

「・・・焦らず」
「うん、でもそんな飲みたいなら頑張るわよ?チャン先生にも力借りて、今年の秋くらいには」
「いえ、結構」
俺は力強く首を振った。
焦らずゆっくり作って下されば良い。この冬でも、次の夏でも。

「雷が、お嫌いだったとは」
「嫌いなわけじゃなくて、すっごく近かったからほんとに驚いた」
「・・・ええ」
「でもあなたがいてくれたから大丈夫。次も助けに来てね?」
「必ず」
「じゃあ腰が抜けたら背負って逃げてよね?雷なら敵じゃないし、刀を振れなくても別に平気でしょ?」
「約束します」
「それなら怖いものなしだわ」

そう言う笑顔がこの前までよりも、近くなったようで。

俺は息を吐き、頭の上の抜けるような青空を見上げる。
季節を跨いだ。昨日の雷雨で。そして秋がやって来る。
その次には冬が、そして年を超えて春が、次の夏が。

いつまでかは判らぬ。それでも、今ではない。
別れは、この方の手を離すのは、今ではない。
それだけで何か、二人跨いで超えた気がする。

「めくちゅを、楽しみにしております」
俺の声に、この方が今日の夏の陽のように明るい声で笑う。
「なあによ、やっぱり飲みたいんじゃない!」

その声に頷きながら、俺は目許を緩めた。

 

 

【 愛別 | 2015 summer request・ビアガーデン ~ Fin ~】

 

 

 

 

リクエストは「ビアガーデン」「遠雷」でお願いします(≧∇≦)(harurin50さま)

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