「おう、どうした大護軍!」
斧を振り上げた大きな影がチェ・ヨンへ走り寄る。
「ウンスはどこだ。いつも膠でひっ付けたみたいに張りついてるくせに」
大男は斧を片手に、チェ・ヨンの背越しに目を泳がせる。
「この村の出入りは、あの門だけだな」
前置き無しの突然のヨンの問いに男は頷いた。
「おう。何しろ鍛冶の技法は門外不出だからなあ」
「周囲の林から入る道は」
「そんなもんねえよ。その為にわざわざ、木をびっしり植えてんだ」
男はヨンに向かい、大きな掌で胸を叩いて請け負った。
「第一この村で隠れるとこなんてねえだろう、見ろよ」
「川原は」
「おいおい、あの向こうは崖だぜ。途中にゃ鼠返しもつけてある。転がり落ちて潰れんのが関の山だ」
そこまで聞いてヨンはようやく胸の息を吐く。
「ならば良い」
「ははーん」
大男は片手で斧を肩へ担ぎ直すと、もう片掌で顎髭の先を捻り、訳知り顔ににやりと笑んで頷いた。
「喧嘩か」
「黙れ」
歩き出したヨンの横を進みながら、男が独りで頷いた。
「負けてやれよ」
「黙れ」
「お前さんにもわかるだろ」
「知るか」
「俺たちには、喧嘩してる暇なんかないぜ」
「・・・」
豪快に言い放つ大男の声に、ヨンは黙って眸だけを向ける。
「明日斬られて死ぬかもしれん。なら笑って生きたもん勝ちだろ」
「・・・」
「仲直りしろよ、悪い事は言わねえから」
最後に大きな掌で己の肩を叩き、斧を肩に揺らし去っていく後姿にヨンは首を振った。
斬られるわけには、死ぬわけにはいかん。絶対にいかん。
しかし死ねぬ理由のあの方と衝突しては、元も子もない。
チェ・ヨンは歩を止め踵を返し、川原への途を駆け戻る。
勢いのまま走り込んだ山道から逸れ、林の中を進む。
時折昏い林の中から、明るい川原を透かし見る。
この辺りかと目測をつけた林の中、音を立てずに川原へと近付く。
開けた川原の大きな石の上。
ウンスはあの時のまま独りで座り込み、ぶらぶらと小さな足を揺らしていた。
「・・・ばーか」
ヨンの欹てる耳は渓流の音の中、ウンスの震える声を聞く。
「ばーか、ばーか。鈍感、考えなし、無神経!」
ウンスの繰り返すその声に、飛び出しそうな足を踏み締める。
俺が居らぬ処でこの罵詈雑言か。どれ程急いで戻ったと思う。
「ウンスのばーか!!」
ウンスは目許を幼子のように袖で強く擦り、はあ、と息を吐いた。
昏い林の中からヨンは、葉影に透ける白い川原を凝と見る。
その白い光の中の、透ける亜麻色の髪。それだけは見える。
それでもその白い顔の目許は、髪に隠れて見えにくい。
そんなに擦れば、擦り剥けてしまおうが。
飛び出してその袖を止めようとする足を、どうにか踏み留める。
目を擦ったウンスは
「泣かない!」
そう大きく叫んで小さな両手を上げた。
その瞬間堪らずに林から身を躍らせ、川原のウンスヘそのまま駆け寄り、両掌をウンスの頬へ当てて庇う。
当てて庇った両手の甲が、ウンスの掌で思い切り叩かれる。
「俺のものを、勝手に」
ヨンはそう言ってウンスの鼻先へ、己の顔を寄せる。
「叩かないで頂きたい!」
「・・・え」
突然目の前に戻って来たヨンとその怒鳴り声に、ウンスは泣いていたのも忘れて目を真ん丸に見開いた。
「何で、ううん、どっから、それより」
「そんな事は良い」
そう言ってまだその白い頬を両掌で挟み込んだまま、ヨンはウンスの顔を確りと上げた。
見下ろす己の眸と、その瞳が合うように。
「宜しいですか」
「・・・は?」
「俺のものだ。二度と勝手に叩かぬように」
「私の顔じゃないの!私のものに決まってるでしょ!」
「俺のものだと言ったら、はいと頷けば良いのです!」
「だって私のものだもん!叩く時には勝手に叩くわよ!」
「どうしてそう減らず口を」
「一個しかない口が減ったらどうするのよ!ご飯も食べられないでしょ」
「いい加減に」
「お腹減ったから、ご飯の事しか考えられないのよ!何よ、悪い?第一どっから聞いてたのよ、ほんと黙って立ち聞きなんて」
ウンスは首を振って、ヨンの両掌を外そうともがく。
その掌に僅かに力を込めて小さい顔を挟み込んだまま、視線を空に投げ上げて、ヨンは息を吐いて訊いた。
「指輪でなくば、駄目ですか」
「・・・え?」
「他に何処か、心の臓に繋がる処は」
「え、っと」
「失くさず傷つかず身に着けておけて、心の臓に繋がる」
「えーと・・・」
「身に着け消えぬなら、元には黥というものがあります」
「げい?」
「罪人に施す古刑ですが。体に傷を入れ墨を擦り込んで」
「それってタトゥじゃない!止めてよ!」
「ではどうすれば良いのです!」
「もういいんだってば!!」
その声にヨンの空を見る眸が戻る。ウンスはその眸を見上げて笑って見せる。
「私がワガママだったの」
「イムジャ」
「怖いんだよね、ヨンア。失くしたり壊したり、怖いんでしょ。
私たちの結婚が、私が、壊れたり、なくなったりしそうで」
声には出せず、ヨンは顎を引く。
言えば言うほど本当に起こりそうで、口にする事すら躊躇う。
「だからいいの。もう判ったからいいの。タトゥは勘弁して」
最後はふざけたようなウンスの声に、ヨンはふと息を吐いた。
「もう泣きませんか」
「泣かないわよ、さっきのはね、あれは目にゴミが入ったの」
「笑ってくれますか」
「それはヨンア次第よね、約束はできないわ」
「揃いの物が欲しいのですか」
「だから、もうそれはいいんだってば」
ヨンは息を吐き、首を傾げる。
鍛冶に弱いと言われても、してやりたいことは幾つもある。
曲げられぬもの、譲れぬものが幾つもあるのと同じように、甘やかし、与えたいものが幾つもある。
それをウンスが欲しがっているかどうかは判らない。
しかし己が与えたいものなのだから仕方ないと、ヨンは苦く笑む。
両頬を挟んだこの白い顔を毎朝見る事。己の顔を毎朝見せる事。
この高く甘い声を毎夜聴く事。不愛想な己の声を毎夜聴かせる事。
小さく細いこの手を握る事。武骨で大きなこの手を握らせる事。
この方を己の脇から離さず、死ぬまで護る事。
そして己の横に、その終わりまで居て頂く事。
見ろ、己も慾まみれだと、頭の中の羅列にヨンは噴き出した。
結局はそういう事だ。己の与えたいものは相手にも返して欲しい。
互いに等しい大きさ重さ深さで想うほどに欲しくなっていくのだ。
「参りましょう」
ようやく頬から離れたヨンの掌、諦めたような声音にウンスは頷いた。
「どこに?」
そう訊くウンスにチェ・ヨンはその手を握り、正しい山道への途を促しながら低く、はっきり言った。
「はいと黙って、ついて来れば良いのです」

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