「イムジャ」
宅の縁側、宵の涼しい風に吹かれながらチェ・ヨンが呼び掛ける。
居間よりウンスが小さい顔を覗かせる。
「どうしたの?」
顔をただ見たかっただけだなどとは、口が裂けても言えぬ。
ヨンは思いながら首を振った
「良い風が吹いている。共に涼みませんか」
「ほんとね、気持ちいい」
ウンスは庭に吹く風を味わうように目を閉じ、長い髪を遊ばせながら夢見るようにうっとりと口の端を上げる。
しかし次の瞬間ふと目を開き、縁側のヨンの横に座り込む。
「でも駄目なの。夕餉の支度が全然できてない」
典医寺の役目。診察と治療。王妃媽媽への日々の往診。宅の内向き。
独楽鼠のようくるくると立ち働くばかりのウンスには休む間もない。
糅てて加えて此度の双城総管府の戦から、迂達赤の軍医まで引き受けた。
ヨンは首を振った。
徳興君が両腕を喪い毒を案ずる必要はなくなったとはいえ、この方が次の戦から大人しく宅に、そして皇宮に籠っているのだろうか。
己の不在を、この身を案じるあまり、また共に来るのではないだろうか。
この方ならばどのような無茶でもするだろう。俺の為ならば何を犠牲にしても厭わぬだろう。
分かるが故に何か手を打たねばならぬ。少しは休ませねば無理が祟るのは目に見えている。
あの時のようにまた倒れでもしたら。そう考えるだけで肝が冷える。
「イムジャ」
「なあに?」
「決めましょう」
「当然どうしたの、ヨンア」
「宅の内向きを任せる者を」
ウンスはヨンの提案に思い出されたか目を大きく開けた。
「ああそうだ。そんな話もしてたわよね」
「遅くなり、本当に面目ない」
謝罪の言葉にウンスは首を振ると、膝に置くヨンの手に細い指をかける。
「そんな事いいけど。でも次に戦に行く前には決めなきゃね。またこの家が空っぽになっちゃうもの」
「もう良い。徳興君の件も片付きました。
俺が戦の間は典医寺にでも居って下されば、それで」
「え?一緒に行くわよ?」
ウンスは心底意外そうにヨンへ向けてそう言った。
「そもそも徳興君の事で、軍医になるって決めたわけじゃないし」
「此度の事で懲りたでしょう。いざ戦になればあんなものではない」
「分かってる。今回は例外でしょ?だからこそなおさら、私みたいな腕のいい軍医が必要じゃないのー」
頑として譲らぬウンスにヨンは息を吐いた。
細い指も一握りで潰れてしまうほど柔らかな手も、全て見せかけだ。
ウンスの決心は何より大きく固く、言葉で覆るようなものではない。
それなら尚の事、一刻も早く決めねばならぬ。
休める時には休ませねばと、ヨンはウンスが重ねた手を握り返しそのまま縁側を立った。
*****
「久しぶりじゃねえか!!」
ウンスを伴ったヨンが夕方の手裏房の酒楼へ踏み込むと、酒を乗せた卓に向かっていた師叔が大きな声で言って笑んだ。
「豪い活躍だったってな。双城総管府を落とすなんざ大したもんだ」
ヨンは首を振り、師叔の卓向かいに腰を下ろした。
「何もしておらん」
「謙遜しやがって」
「いや、本当だ。何もしておらん。白蟻に食い尽くされた虚木を足で蹴ったら倒れたようなものだ」
イ・ソンゲの根回しがなくば落城をこうも早くは成せなかったろう。ヨンもそれは重々承知だ。
しかし師叔には言わずにおく。その名が出ればウンスが傷つく。
それだけは絶対にしたくはないとヨンの唇は堅く引き結ばれた。
「白蟻でも黒蟻でもいいさ、うちのヨンアの名が挙がればな。で、急にどうした。後始末に忙しいんじゃねえのか」
師叔は上機嫌で言いながら、卓の上の酒盃を煽った。
「マンボに会いに来た」
「何だい何だい、やっと思い出してくれたかい」
奥からそう言ってチョゴリの袖を捲りながら、マンボが顔を見せた。
「双城総管府を陥落したお偉い大護軍だからね、こっちから声かけちゃいけないかと思って黙ってたんだよ。クッパ食うかい」
そんな遠慮をするものかと、チェ・ヨンは片頬で笑んで頷く。
「ああ、クッパももらうが、その前に頼みが」
「クッパ!!!」
始まった。まだ本題に差し掛かってすらおらぬものを。
話途中に割り込んだウンスの嬉し気な叫びに、師叔の向かいで、ヨンは大きな掌で額を押さえた。
「ヨンアも、お腹空いてるよね?」
空いているのはあなたであろう。
ヨンは曖昧に頷きながら、奥の厨のマンボにどうにか告げた。
「前に話した件だ、宅の内向きの」
「ああ、あれかい」
奥からクッパの碗を二つその手に運んできたマンボはその器を卓のウンスとヨンの前に置く。
そして濡れた手を手拭いで拭きながら師叔の横、二人の向かいの椅子へと音を立てて腰を掛けた。
「今、頼めそうなのは出払っててね。ただ、一組思い当たるのがいる」
「手裏房ではないという事か」
「あんたのとこの絡みだよ」
愉快気な声に眸を眇め、ヨンは目前のマンボをじっと見る。
俺の絡み、迂達赤ということか。思い当たる奴は全くいない。
そんな風に考えながら、それでもどうにか思い当たる顔を探してみる。
「正しくは、あんたのあの小煩い叔母絡みさ」
「叔母上とは、武閣氏ということか」
「さすがに天下の大護軍は察しがいいねえ!」
マンボは茶化すように言って、次にウンスに目を当てた。
「どうだい天女、会ってみるかい」
クッパを掬った杓文字を口に咥えたまま、ウンスが頷いた時。
「旦那じゃねえか!」
懐っこい大きな声が、東屋の奥から響く。
ヨンが声の方を見ればチホとシウルが嬉し気に手を振りながら、此方へ走り寄る姿が見えた。
「何だよ何だよ、久しぶりだな!」
「ヒョン、ヨンの旦那が来てるぞ!」
迂達赤の若いのも大層騒がしいが、この二人には敵わんな。
ヨンは首を振りながら二人の奥を見る。
大声で呼ばれたヒドが、眉を顰め懐手でむっつりと歩いてくる。
苦虫を噛んだような面を遠目に眺め、ヨンに笑みが浮かぶ。
それでもああして外に出てくる。 チホとシウルに囲まれて。
ヨンはその眸で、ヒドへと語りかける。
ヒド。もう良い。
俺たちも、もう生きて良い。
これから先、ヒドにも明るい先がある。
俺が比翼連理を見つけたように、ヒドにもきっと何処かにいる。
出て来てほしい。一歩ずつで良い。昏い井戸から出て、明るい陽を見てほしい。
俺の氷が溶けたように、その昏い井戸に陽を照らす人間が何処かで必ず待っている。
「ヨンア」
「ヒド」
卓まで寄り己を見降ろすヒドを見上げて、チェ・ヨンが僅かに黒い目許で笑む。
ヒドはその眸を見つめ、小さく視線を動かした。
横のウンスはマンボと何やら飯談義をしている。ヨンは顎先で頷くと席を立った。
「お前の処のテマンが来ておる」
東屋を臨む石段に並んで腰掛け、ヒドが静かな声で言う。
「やはりか」
「察しておったか」
「察さでか。奴の息が整っている」
ヨンの声に、ヒドが低く笑う。
「覚えが良い。内功の才の有り無しは分からんがな。とにかくお主のために必死だ」
「そういう奴だ」
「・・・そうだな」
ヒドは嬉し気に言って、横のヨンをちらりと眺めた。
「いよいよ婚儀か」
「・・・何故分かる」
「分からいでか」
その声にヨンは肩向うのヒドへ目を流す。ぶつかった二つの目がそれぞれ緩む。
「ヒド」
「何だ」
「出てくれ」
「・・・考えておく」
「必ずだ」
ヨンの声に、ヒドの目がふいと逃げる。
「出ようと出まいと、祈っておる」
「でも、出てほしい」
ヒドの大きな掌がヨンの頭にぼんと載る。
「いつまでも餓鬼だな」
「ヒョン」
「判ったから、もう良い」
ウンスがマンボと交わす明るい声が、宵闇を抜け此処まで届く。
その微かな声を聞きながらヨンは満足げに眸を閉じる。
あなたがいれば、俺には怖いものはない。
闇もなく、冷たさもなく、この胸は二度と凍りはしない。
あなたがこの胸の隅々までも、明るく温かく包む。
だから思う。守りたい者全てがこんな風になれれば良い。
明るく温かく、安らいで息をする。
愛する者と朝を迎え、愛する者と夕を送る。
そんな簡単な事すら許されぬ者がいる。気付かぬ者もいる。
あなたと逢わねば、俺とて気付かなかった。
どれ程に大切か。どれ程に愛おしいか。どれ程に護りたいか。
ヨンの気持ちも知らぬげにウンスの明るい声は夜の帳を抜け、東屋を抜け、手裏房の庭に響く。
その声はいつでも教える。
この雄の眸では見えぬものを、その雌の目で見て。
飛んで行けと、その翼をこの翼の羽搏きに合わせる。
比翼連理。天にあっては、願わくば比翼鳥でありたい。
チェ・ヨンは閉じた瞼の奥、もう一度その最愛の者の姿を描く。

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