2016 再開祭 | 閨秀・捌

 

 

「医仙」
鍛錬を終え戻った私室の中。
西空からの陽の射す部屋で、上げ髪を解く姿へ声を掛ける。
「うん?」
「申し訳ありませんが」
「・・・なあに?」

降ろした髪を指先で整えて振り向き、詫び声に身構えるあなたに小さく頭を下げる。
「風呂の時間が遅くなります」
「そんなこと?別に良いわよ、驚かせないで」
「これからも不自由を」
「構わないってば、研修医時代に慣れてるし。さすがに3日以上入れなかったら困るけど」
「・・・医仙」

今日一日共に過ごして考えた。それでも判らない。
この方がどうするつもりか、どうしたいのか。
「今後、どうしますか」

兵に挨拶をし、共に飯を喰い、鍛錬を見せた。
護るという誓いに一切の偽りも揺らぎも無い。
それでも肝心な事から目を逸らす事は出来ん。
この方の解毒に成功した訳でもなく、そして解毒に成功せぬ限り。

「隊長」
秋の夕、昼の間の温かさを悔いるかのように、宵の暗さと寒さが忍び寄る刻。
変わらない明るさと温かさで、あなたが俺を呼ぶ。
「私、ここで解毒薬を作りたいの。チャン先生にも協力してもらう。許してもらえますか、隊長?」
「解毒薬」
「はい、隊長」
まるで容易いことのように、この方が微笑んで頷く。

解毒薬。
もしも成功するなら。此処で解毒が出来るなら。
「絶対に離れない。そのために出来る事は、全部したいの」
「天門が開くのは」
「えーっとね・・・」

卓上の硯箱を見つけると、あなたは立ち上がり其処の筆を取る。
そして脇の紙に何かの四角と、天界の文字を書きつけていった。
「今日がここ」

書きつけた並ぶ四角の一番上、左側の文字を指差して微笑んで俺を見上げ
「で、天門が開くのはここ。もっと遅くなるかもしれないし」
一番下の右側、最後の枠を指差して続く声。
其処に書かれた幾つかの四角、埋まる天界の文字。

俺達に残された枠を数える。
未だこれだけあると喜ぶべきか。これしか無いと憂うべきか。

「まだこんなにある。だからギリギリまで出来る事は、全部したいの」
「出来ますか」
「もちろん。出来ると思うからやるのよ?」

俺を見上げる真直ぐな瞳。
頷くのも首を振るのも怖い。敵を斬る幾倍も怖い。
敵なら幾人でも斬る。しかし薬では手も足も出ん。

それでも頷けばこの方はやるだろう。
一度決めればどれ程止めても突走って行くだろう。
共に逃げ、そして戻って気付いた事。
この方は俺の為にだけ笑って、そして泣いている。
俺が隠れて為したように、俺を護ろうとしている。
兵らに気を遣うのも、俺を慮ってだと知っている。

俺の傍らが高麗で最も安全だと、迷いなく言ってくれた方。
離れない、だから逃げるなと幾度でも俺に教えてくれる方。

頷いて赦されるのか。今から強引に天門に引き摺って行くべきか。
離せないのに。赦されるなら誓いなど反故に、引き止めたいのに。

赦されるなら、もしも許してくれるなら己の総てで護りたい。
最期のひと息まで決して離れずに、独りにせずに共に居たい。

赦されるか。最後の声が咽喉に詰まる。
それでも答を出すなら、もう刻は無い。
「・・・侍医に、訊きます」
この方に頷き、黙って小さな手を握る。
「うん。今から典医寺に行ってみようか?」

握り返してくれる小さなこの掌を離す事など、出来ようもないのに。

 

*****

 

「作りましょう」
すっかり陽が落ち、冷え込み始めた診察部屋。
正面に腰掛ける突然の御客様に迷いなく頷くと、隊長は意外だと言いたげな顔で眸を眇めた。
「出来るのか」
「出来る出来ないではありません。作るのです」
「刻は無い」
「承知しております」
「侍医」

私の顔をいつものように真直ぐ見つめ、黒い眸が無言で問うている。
出来るのか。請け負った約束を守れるかと。
医仙の命が懸かっている。隊長も命懸けだ。

出来ぬと言えば、そのまま医仙を連れてまた行くのだろう。
王様への約束も迂達赤の皆も、御自身の役目も名誉も総て捨てて、幾度でも医仙を助ける為だけに天門へと向かうだろう。

行けばこのお二人は離れ離れになる。医仙が天界へお戻りになれば、二度と逢う事は叶わない。
決して破れなかった厚い壁の向こう、立ち入れなかった深い沼の中にいた頃のような隊長に戻る。

一度温かさを知った者がまたあの世界に戻れば、二度と戻れまい。
事態は隊長と初めてお会いした八年前より余程深刻になっている。
私の返答に懸かっているのは医仙の命だけではない。隊長の心もだ。

思わず黙り込んだ私に、診察部屋の蝋燭を映した医仙の目が当たる。
「チャン先生?」
「はい、医仙」
「私、生きるために帰ってきたの。先生にまだまだ教えて欲しいことが、山ほどあるの。
韓医学も、鍼も、脈診も、薬草も」
「医仙」
「先生を知ってる。その実力も知識も。この世界のド・・・医師として、先生より信じられる人はいない。
同僚として。先輩として。それに最初の友達として」

王妃媽媽の治療を施したあの日。
隊長が突然この方を連れ、王様の帰還路の宿へ現れて以来。
あれから幾度、共に病人や怪我人の治療に立ち会ったろう。

この方の天の医学に惹かれ、志の無さに呆れ、隠されていた怯えに気付き、隊長を救ったその心に、諦めの悪さに魅入られた。
隠れて泣いていらっしゃれば助けたいと願い、間違っていれば諌め、正しければ共に歩きたいと乞い、その全てを知りたいと思った。

そうだ。最初は天の医官として。同僚として、後輩として、そして。

「あなたは大切な・・・朋です。必ず助けます」

診察部屋の椅子を立つと、医仙と隊長の視線が私を見上げた。
部屋の中央、薬壺を並べた棚に向かいながら御二人を振り返る。
「腕の毒跡を見て以来、倭の飛虫を含めて解毒薬を試しています。
この中のどれかに、有効なものがあるかも知れません。
併せて、手に入る総ての医書の記載も探しております」

脇に焚き続ける薬缶からの湯気で湿りと温度を保ちながら、並べた薬壺の蓋を僅かにずらし、その中を一つ一つ確かめて行く。
一日三回、四刻ごとにそうしている薬壺の列を前に声を掛けると、顔を見合わせた後に立ち上がった御二人が此方へ歩いて来る。

「諦めてなかったの?」
医仙が私に並ぶと、蓋の中身を共に確かめながら声を上げる。
「諦める理由がありません」
「だって私、一度はここから出てったのに」
「それでも続ければ、この先必ず誰かの役に立ちます」
「先生、本当にありがとう」
「当然でしょう。あなたの朋なら」

隊長は私達の遣り取りに複雑な表情で、一歩退いた処で眸を逸らしていらっしゃる。
大きくなられた。いらしたばかりの頃、中医についてお伝えした頃が嘘のようだ。
今この方は隊長の体だけでなく心をも救い、此度は王妃媽媽の御体も、王様の御心も救われた。
その命を懸け戻って来られた、そんなあなたに私が出来る事は。

この私自身の命を懸け、あなたの命を守る事。
志を全う出来るように、あなたの心を守る事。
「医仙」
「うん」
「隊長」
「・・・何だ」
「必ず成功させてみせます。お約束します」
「私も一緒にやる。教えてね?チャン先生」
「無論です」
「侍医」

低い声に目を上げれば、離れた隊長の視線が問い掛ける。
信じて良いか。出来るのか。
微笑み返して頷く私にようやく安堵したかのように、隊長は肩で大きく息を吐いた。

 

 

 

 

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