煨 煆 炮 炒 炙 烘 烤 焙、洗 漂 泡 潤 水飛、蒸 煮 茹 淬、発芽 発酵 製霜。
ありとあらゆる草木花、生きもの、石、土や砂までも。
葉、実、芽、茎根、皮、身、肝、卵、巣、その体液や排泄物。
先人の教えと智慧を悉く受け継ぎ、己で調べ確かめる。
無駄な事などない。すべて一度は、必要なら百度でも。
干し、煮て、絞り、刻み、触れて齧り、舐めて飲み、練って塗り付け、傷を癒すかどうかを知る。
天の医官に於いては、どれ程の御智慧をお持ちなのだろうか。そんな事を考えてみる。
空恐ろしい程の手腕。
目の前で王妃媽媽の御首の傷を見る間に繋ぎ、御自身で刺した隊長の腹の傷を開いて再び塞いだ。
私には出来ない、どちらも出来なかった。
王妃媽媽の御首の傷は塞げず、隊長を刺すなどそもそもしない。
大きな息を吐き、天秤から目を上げる。薬草を扱う折に無駄な事は考えてはいけない。
まだ高く窓外から射す陽、そして部屋の油灯の灯で今一度慎重に手元の薬剤を確かめる。
選ぶひと種類に、加える薬剤に、全ての神経を向けねばならない。
それこそが患者の命を左右し、痛みを抑え膿を喰い止め命を救う。
いつでも備える。そして事が起きればすぐに考える。
今までの生薬で良いのか。何か違うところはないか。
患者の症の虚実、脈、四診とその結果、自分には何が出来るのか。
壁一面に据えられた薬棚、天井や壁柱に下がった薬袋、卓上一面に広げた薬剤。
何をどう組み合わせれば患者の痛みを抑えられるのか。大切な命が救えるのか。
今集中すべきは迂達赤隊長。
何かが起きている。
何が起きているのか問われても判らないとしか答えられない。
何しろ頑固一徹で決して弱みを見せない隊長は、御自身の周りに高く巡らせた分厚い壁の向こう。
竹林の奥で息も気配もひそめ、舐めて傷を癒そうとする若虎のように、傷もその状態も曝さない。
隊長がそういう態度なら、こちらも自由にさせて頂く。どれ程強く拒まれようと。
いや、拒まれるなら知り得るあらゆる手を尽くし、万一の事態に備えられるよう。
もういい加減判っておられるだろう。
医官とは、百の内の九十と九人が無理だと匙を投げても、最後までその匙を握り続ける者。
九十九の道が塞がれ百番目も塞がれたら、その匙でも指でも使って百一番目の道を掘る者。
絶対に諦めない。
一度だけ天井を仰いで大きく深い息をし、もう一度目の前の薬剤に、天秤に、薬研に目を遣った時。
大きな騒々しい音で、突然薬室の扉が開く。
立っていたのはトギ、私が薬を調合する折にどれほど集中し、神経を研ぐか誰より知っているのに。
指を動かす暇もないのか、扉を叩いて入室を知らせる事も忘れたか。
「・・・何事だ」
問い掛け声には答えずにただこの長衣の袖を強く引き、天の医官の仮の御部屋にと明け渡した部屋の扉前まで来ると、トギが初めて私に振り返った。
どんな言葉より雄弁な目で一度だけこの顔を凝視すると、ようやく袖から離れた指が開いたままの扉の中を指す。
そこには御姿どころか、紅い髪一本残っていない。
・・・天の医官が消えた。
勘弁してほしい、唯でさえ非常時だというのに。
隊長は、腹を開けた手術の後の予後が良くない。
ようやく皇宮には戻れたが、その顔色がいつもと明らかに違う。
土色に水気を失くした肌、脈を取ろうとしたこの指を払い除けた手、その刹那に掠めるように触れた手首の熱。
余計な事はするなと私を睨みつけた目の充血と濁り、無言ですれ違った際の息遣い、全て平素の隊長ではない。
今まで大抵の刀傷は優れた内功で抑え、呼吸法で痛みを散らし、驚く程の回復力を見せた隊長。
しかし今回程の深手を負うのも、まして天の医術で腹を開かれるのも、私が知る限り初めてだ。
あんなに深く腹を刺されれば、普通の者なら死んでいる。
そして助けるためとはいえ、あんなに大きく腹を裂かれれば。
それを仕出かした、しかし隊長を救える唯一無二の智慧と手技を持つ天の医官が居られない。
一体何なのだと怒鳴って頭を抱えたくもなる。次々に騒ぎばかり起こされるのは何故なのだ。
「いつ消えた」
気が付いたのは今だと、トギが指で答える。その声に従って椅子の温みを確かめる。
その台座はすっかりと冷え切り、つい今しがたまで座っていた気配は感じられない。
「誰か出て行く処を見ていないか」
訊いてみる、そう言って頷いて飛び出そうとするトギを止める。
見かけたと聞いたところで持ち場を離れ、その後を追い掛けるまではしていない筈だ。
それなら王命を受けた私が責任を持って探しに出ねばならない。
「トギ」
止めた私を不思議そうに見る目に
「黄連解毒湯、五苓散、十味敗毒湯、荊防敗毒散、桂枝茯苓丸、玉屏風散、排膿散及湯」
列挙する薬湯名を何事もないよう聞きながら、了承の証のようにトギは一度だけ頷く。
「紫雲膏、太乙膏、念の為全ての薬剤の在庫を調べて置いてくれ」
判ったと指で答えるトギに頷き返し、踵を返すと部屋を抜ける。
走ってはいけない。
私が典医寺で走るとは緊急事態、他の医官や薬員を無駄に不安にさせる。
何かが起きたか、誰かが大きな怪我か、若しくは命に係る大病を得たか。
そういう事を意味するのだ。
意識してゆったりと、しかし出来る限り足早に典医寺の門へ向かう。
その最後の門の周辺で、縁台に広げた薬草を裏返しながら満遍なく陽が当たるように干している薬員に
「天の医官様を見かけなかったか」
さりげない口調で、そう訊いてみる。
責めてはいけない、詰る事も厳禁だ。
私がそんな態度に出れば、あの自由奔放な天人の典医寺での立場は悪くなる一方だ。
薬員は私の意識した穏やかな作り声に、何の疑問もないように頷くと
「はい、つい先ほど門から出て行かれました」
そう言って頭を下げる。
本当に心底うんざりする。いい加減にして頂きたいものだ。
天の医官には隠れ鬼気分かもしれないが、私は鬼になって追いかける気分ではない。
それでも小さく頷き返すとゆったりと門を出る。
周囲の視線がなくなった瞬間に、夏の陽の下を全速で走り出す。
あの紅い髪、珍妙な天の衣。見逃す筈はない。
次に捕まえたら隊長に御許しを頂いた上で、部屋に厳重に錠を下ろして閉じ込めなければならないのか。

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先日お話を全て戻して下さったのを機に、念願だった最初からの読み直しをしています。今日は比翼連理まで来ました。全部一度は読ませて頂いたお話ですが、懐かしくて何度読んでも感動して幸せな時間を過ごしています。こんな時間を与えて下さるさらんさんに感謝です。