朝の拝診に伺った媽媽は、脈を診た後の私に向かって無理に笑顔を浮かべて言った。
「王様が順天から麗水に水軍を集めて探しております。鳩の飛文が来れば、すぐにも医仙にお知らせします」
「はい」
どうして良いのか分からない。笑っていいのか、泣いていいのか。
ただあなたの不在の事実だけが、心に重たくのしかかる。
媽媽はそんな私を見て、不安そうにお顔を曇らせた。
「医仙」
「はい、媽媽」
「大丈夫ですか」
大丈夫、なんだろうか。分からないから曖昧に頷いてみる。
私は、本当に大丈夫なんだろうか。
*****
「チェ尚宮」
ウンスの去った後の坤成殿の私室、王妃の声にチェ尚宮が無言で一歩進むと頭を下げる。
「医仙から目を離すな」
「畏まりました」
低く答えたチェ尚宮は、それでは足りぬと気付いたように言葉を添えた。
「宅の守には伝達済みでございます。皇宮内では武閣氏を」
「そうせよ」
王妃は深く息を吐くと、沈んだ瞳で坤成殿の扉を眺めた。
「あのように・・・」
チェ尚宮が同意するよう頷く。
あの天人は今まで恐ろしいくらい真直ぐに感情を露わにして来た。
皇宮の仕来りで許される事ではなく、またそれが故に敵を拵えても来た。
その様子は見ていて眩しく、その言動に焦りながらもチェ尚宮は心の何処かで、天人の法度を羨んでも来た。
笑いたい時に笑い、怒りたい時に怒り、相手がどれ程強大な権力を振るう者であろうとずけずけと物を言う。
徳成府院君であろうと徳興君であろうと、元の断事官であろうと、そして王様や王妃媽媽であろうとも。
その天人が全ての感情を何処かに置き忘れたような顔をするのを見るのは初めてで、それが得体の知れぬ不安を抱かせる。
それは目前の貴人も同じ心持なのだろう。
天人が去った後の扉を見詰めた後、チェ尚宮にとも己にとも言い聞かせるよう、王妃は小さく呟いた。
「こんな事で大護軍が去ぬる筈がない。比翼連理のお二方じゃ。必ず戻って来られる。それまでの辛抱故」
「医仙の為ならば、あの男は海を割ってでも戻って参りましょう。御心配には及びませぬ、媽媽」
チェ尚宮の物言いに、王妃の顔に初めて小さな本物の笑みが戻る。
「まさしくそうじゃ」
「はい」
そう思うしかない。今は笑ってあの甥の戻りを待つ以外術はない。
チェ尚宮が考えながら、気を許せば湧き上がる不安の黒雲を今一度胸の奥底へ押さえ込んだ時。
「王妃媽媽!チェ尚宮様!失礼致します!!」
王妃の居殿である坤成殿にはあるまじき騒々しい物音と、回廊の床を打つ乱れた足音。
それが見る間に近づいて来ると、声の主は先触れも早々に烈しい音で扉を開けた。
染みついた兵の慣わしで腰の短刀に手を掛けたチェ尚宮が、王妃の前に立ち塞がり闖入者の顔を睨む。
闖入者のアン・ドチ内官長は、その場には全くそぐわない耀く笑顔を浮かべ、朗々とした声を上げる。
「船が見つかりました!!王様が皆さまをお呼びでございます、医仙は何方に!!」
内官長の声にチェ尚宮の背に庇った王妃が、音もなく椅子を立った。
*****
潮風に吹かれつつ糸を垂らした三刻程。
その間に奴らは潮に浸かった武器鎧を、一通り沢で流し終えていた。
頃合いを見計らい
「来い!」
と岩場から大声を張ると、気付いた奴らが浜から岩場へよじ昇って来る。
「・・・大護軍、これ」
よじ登った岩の上を確かめた一人が、呆気に取られた声を上げる。
釣れねば潜って栄螺でも掴んで来ようと覚悟して始めたが、その必要はなかったらしい。
潮目が良かったのだろう。岩場の小蟹を餌にした所為かもしれん。
入れ食いとはまさにこの事だ。
岩の上に並べた五十ほどの肘叩きの大きさの魚。
岩影から餌に釣られ這い出たのを掴まえた大蟹。
張りついていた岩から力任せに引き剥がした鮑。
これなら自慢しても良かろう。
かなりの釣果を前に、其処に居並ぶ迂達赤の奴らが俺を見た。
「運ぶ」
「あ、あの・・・」
「焼けよ」
「ええ。それは勿論ですが、でも」
チョモが申し訳なさげに情けない顔で頭を下げる。
「大護軍にばかりご面倒を掛けて」
「馬鹿が」
釣りに慣れぬ奴らが幾ら糸を垂らそうと、掛かるなど小魚が精々。
でかい魚はでかくなる訳がある。流儀を知らねば釣り上げられん。
父上の形見の釣針を丁寧に油紙に包み直し、沢で漱いで来ようと懐に仕舞いこむ。
始めた頃は中天より東にあった陽も既に大きく西に傾き、海面を朱色に染めていた。
照返しの中に立つ静かな波頭が飽きもせず寄せては返し、砂浜に鮮やかな紋様を描いている。
その波音の中
「テマンらは」
問うた俺の声に
「まだです。そろそろ暗くなって来るのに」
トクマンが岩場の上から伸び上がり、木立の向こうの山を見た。
あの男が居れば心配などない。迷う事も、降りる途を見失う事も有り得ない。
俺は続いて悠々と岩場から山並を眺めた。
山に入ったあいつは野生の狼と同じだ。
何処まで獲物を追って良いか、何処まで陽が傾けば塒に帰るか、全て正しく知っている。
直に戻って来るだろう。
そう思い木立の入口を確かめた視線の隅に、ちらりと動くものがある。
思った途端にこれだと苦笑を浮かべ、
「来るぞ」
言いながら岩場の魚の鰓に指を掛け三、四匹を纏めると、俺は足許の悪い岩場を下り始めた。

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ウンスが気の毒ね
はやくいい知らせが…
来た♥
おお
魚だー!
元気の源♥
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あぁー
やっと見つけてくれた!!
ウンスもう少しの我慢ですね(^^)
それよりもヨン
五十匹も釣ったんですか?
本当に頼りになる男だわ❤
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やっぱり、ヨン、釣り上手!
迂達赤の皆が、食べはぐることがなさそうな、
魚介。
ヨンが、いつかは釣りだけをする生活を…と願ったことがあるだけのことはある。
船発見?
ヨンたちからは、見つけてもらえていることは分かっていないのですよね。
希望が出てきた!