「お帰りなさい、ヨンさん」
大路で侍医と別れ、そのまま駆け戻った宅の門前。
出迎えたコムが眼を細め、夕陽の逆光の俺を確かめて頭を下げた。
「トクマンさんが、ウンス様と一緒にお戻りです」
「・・・ああ」
「チュホンはどうしました」
「迂達赤の厩に預けて来た」
「俺が迎えに行きましょうか」
心配そうに宅前の道から、皇宮の方へ目を向けるコムに首を振る。
「いや。一晩なら問題ない」
あの邸の者、あの若い男にあの方の身元が露見する何かを晒したくなかった。
家令は恐らく開京に詰めているのだろう。俺とあの方の顔を知っていた。
それでも出来る限り、此方から手の内を明かしたくない。
まして任務でもないのに、夕の大路を馬で駆けるような目立つ真似は。
真冬の凍るような寒さとは違う。
こんな春の宵なら、チュホンも一晩くらい仲間らと過ごすのも良かろう。
門を抜ける俺の後、コムは頷きながら大きな掌で丁寧に門戸を閉ざした。
コムと並んで向かう母屋への径。
二組の足音が敷き詰めた小砂利を鳴らす。
あの方が命を狙われたのなら戦い方は判る。
慣れていると言っても良いほどだ。決してありがたい慣れ方ではないが。
しかし懸想されたと聞いて、まして相手が西京の大貴族の息子と知って、此方から如何出るべきか。
相手の正体がまだ判らん。その大貴族が王様と近しいなら、ただ悋気の赴くままに騒ぐ訳にもいかん。
あの方の気持ちを疑う事はない。
いつもの如く、あの瞳に映るのはただ酷い捻挫を負った怪我人、それだけだ。
そう考えながら春草の萌える庭の径を母屋へ向かう。
この薬園の薬草を摘んででも、どうにか治そうとしているだけに過ぎん。全力を傾けて。
一人ひとりが王様の民であり、一つひとつが俺の守る命である。
健康を損なえば、喪われれば、俺が悲しむとしか考えておらん。
そして判っているから、制止の声を掛けそびれる。
あなたに懸想した男に近寄る事など止めろ、そんな男など診るな、放って置いてもいつかは治る。
そう怒鳴って止める事は易い。
ただそれでは己の吐いた声との齟齬が生じる。
この口があの時、泣きながら必死に首を振るあの方に言ったのだ。
李 成桂を治療してくれ。あの男の為でなく、自分の為に。
そうでなければあの方が生涯癒えぬ傷を負うと知っていた。
怪我人を見捨てた医官として生涯深く悔いる、そう思った。
ではソンゲは駄目で、あの若い男は良いのか。
放って置いても治るから放って置けとなど、俺に言う権利はない。
俺の命を奪う男は先の時代を担うから助けろ、あの若い男は何処のどいつか判らぬから捨て置け。
そんな身勝手な取捨選択があるか。
俺を弑すかもしれぬ男を助けろと言ったのなら、あの方に懸想する男も平等に助けねばならん。
それこそが俺があの時あの方に突き付けた決断であり、懇願だった。
金紅に燃える春の夕、雲一つない鮮やかな夕暮れ。
その天上を見上げれば、藍へと移りゆく春の宵空。
春霞の時季は過ぎ、夜の色に来る夏の気配が混じる。
結局首を絞めるのだ。天に吐いた唾は己に落ちて来る。
これ以上何も言わぬに限る。
いや、言いたい事は積もっても口出しする資格はない。
あの日双城であの方を傷つけ、泣かせた罰は受けねばならん。
庭の径を踏む足音の中、母屋からあの方の声が届く。
それを耳にしただけで居てもたっても居られずに、俺は急かされる足を早めた。
*****
「ヨンア、お帰り!」
母屋の居間に向いていた俺よりも庭を向かれていた医仙が先に気付いて、明るい声で言うと大きく笑って手を振った。
その声に俺は肩越しに振り返り、そこにいた大護軍に頭を下げる。
大護軍は足早に縁側先でお戻りを待っていた俺と、縁側の縁に腰を掛けていた医仙のところまでやって来た。
「遅かったのね、忙しかった?」
心配そうにおっしゃる医仙と
「お帰りなさい大護軍、お邪魔しております」
頭を下げる俺の声。
「只今戻りました」
大護軍は曖昧な表情でまず医仙に小さく頭を下げると、続いて俺に
「飯を喰って行け」
と言い残し、表玄関の方へ廻られるように足を返す。
今日はやけにあちらこちらで夕飯を勧められる日だな。
しかし判っている。あの若い男の邸で、あの無礼な供が夕飯を勧めたのは俺じゃない。奴の視線は、医仙しか見ていなかった。
「あ、いえ、大護軍。今宵は戻ります。明日一番で歩哨なので」
俺のそれは口実だが、嘘じゃない。
大護軍も歩哨の巡はよくご存知のせいか
「・・・ああ」
とだけ唸り、それ以上引き留めようとはされない。
ただしこのまま兵舎に戻る訳に行かない。俺にも大護軍の兵、迂達赤の一員として意地と誇りがある。
そして大護軍に命じて頂いた以上、医仙を守る責任が。
今日の一部始終を知ってるのは俺だけだ。
医仙は典医として余りにお優し過ぎるから、怪我人の若い男やあの無礼な供を冷静に見ていらっしゃるとは思えない。
「大護軍。帰る前に少しだけ良いですか」
もうそろそろ宵の帳の下り始めた庭先。
居間から縁側を抜け、庭先までを照らす柔らかな油灯。
遠慮がちな俺の声に、大護軍は顎でその先の暗がりを示す。
その顎先に促され、俺は灯の届かない庭の薄暗がりへ踏み込んだ。

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そりゃもう 一大事だもの
兵舎に帰っても
チュンソクに ネホリハホリ…
ちゃんと 大護軍にお話聞かなきゃ
あと、 医仙と若様 やり取りを報告…
エライコッチャです。
きっとチュホンだって心配してるわ
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ヨンの悪い?性格ですね。
考えすぎるところが(^^;
こんな時はズバッと言っちゃって!
トクマン君。
ヨンに発破をかけてくださいね(^^)
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おぉ~どうなる?どうなる?ウンスを傷つけてまで頼んだ過去の医療行為…反比例して今現在の恋する患者を無自覚で医者として治療してるウンスヨンア的には何とも言えないところよね…このあとどうなる…