2016 再開祭 | 玉散氷刃・廿壱

 

 

春の夕方の陽射しが傾いて、見慣れた部屋の中を淡く染めていく。
部屋を出たまま戻らないチェ・ヨンの空席にウンスは目を投げた。

早く戻ればいいのに。そして、公卿のこんな苦しい告白を聞いて欲しい。
本当は誰よりも心の痛みに敏感な人だから、聞けばきっと分かってくれる。
そう思いながら、チェ・ヨンの戻りを待ち侘びる。

そんなウンスの心を知ってか知らずか、オク公卿は苦笑いを浮かべ淡々と言った。

「いつもそうだ。私は自分から動けない。弟の存在もそうだ。
弟が出来たと言えば、いなくなった時誰かが気付くかもしれぬ。
存在が知れれば母はともかく、父は体面上、弟を捨て置かぬだろうと」
「幼い子が出来る事などそう多くはない。その時の公卿様の判断が間違っていたとは思いません」

侍医の声にウンスも同意するよう、何度も頷いて見せる。けれど心の中の疑問はまだ残る。
「でも、何故家を出たんですか?奥さんが妊娠したタイミングなら、助ける手が多い方が良かったでしょう?」

確かに幼少期に目にして来た場面は衝撃的だっただろう。
きっと21世紀なら、何か月にもわたっての専門医の治療と投薬が必要なPTSDと診断されるほど。
けれど第二専攻程度の自身の知識では、公卿の治療は出来ない。
下手に手を出せば傷が深くなると判断し、まず現状を把握しようとウンスは質問した。

オク公卿はその問いに重い息を吐く。
「私の縁談を、母は気に入らなかったようだ。妻の祖父も二代前の王様の下、御史大夫まで務めている文官家。
決して侮れる家系ではないのだが、もともと妻は病弱だった」
「そんな状態で妊娠したなら、なおさら」
「妻の懐妊を伝えた時、母が言った。
あのような病弱の身で子を宿すなどとは、何を考えておるのか。全く、手間を掛けさせると」
「全く、手間を・・・」

それがキーワードなのだろう。
母親は他意なく言ったのかもしれないが、ウンスには公卿の心が分かるような気がした。
奥さんに対する母親からの、死刑宣告にも等しく聞こえただろう。
それを聞いて、どれほど怖かっただろう。

少なくとも典医寺に奥さんを連れて来て以来、公卿は妊娠中の彼女を思い遣り、時間がある時には顔を見せていた。
この時代の結婚、まして貴族同士の結婚であれば、最重要視されるのは両家の格と釣り合いだろう。
それでも公卿が奥さんに冷たい態度を見せたり、邪険にした記憶はないと、ウンスは思い返した。

「それを聞いた時心を決めた。此処に居っては妻か腹の子、或いは双方ともが母の手に掛かる。即座に家を出ようと。弟を連れて」
「そうだったんですね」
「これが医仙を拐した理由にならぬ事は判っている。ただ、私は易しく考え過ぎた。
確かに頑丈ではないが、日常を過ごすには何ら問題のない妻だ。子を為したと知って、高名な町医者も見つけた。
効能があると聞けば、どんな薬湯もふんだんに飲ませた。いずれ体も良くなろう、元気な子を産むであろうと」

公卿は暗くなり始めた窓の外に目を遣ると、夜の帳の下りかけた薄闇の庭を、焦点の定まらない目で見た。

「病弱な妻が気に入らぬと言うなら、元気にすれば良い。
元気な妻が生んだ元気な赤子なら、母にとっては我が家の跡取だ。決して粗末には扱うまいと」
「だからなんですね?」

ウンスはようやく合点がいった。あの時、誘拐現場で聞いた声。

─── 今の妻が腹の中にいる子を生むのは、困るのです。

今の妻とはつまり、病弱なままという意味だった。
そして確かにウンスはキム侍医を交えたカンファレンスで伝えた。
母体の状況によっては、生まれる赤ちゃんに何らかの治療が必要な事もあり得ます、そんな意味の言葉を。

リスクがある以上カンファレンスでその可能性を伝えるのは医師として当然だと思っていたし、そう教わった。
妊娠高血圧症候群なら、胎盤早期剥離、胎児の発育不全、最悪のケースで子癇。自分でもそう考えていたのだから。

ウンスの最大のミスはここが高麗で、そしてこの時代に発生率の低いリスクを伝えれば、希望の芽を摘むと考えなかった事。
もしかしたら、オク公卿は生まれる子が障碍を持っていると思い込んでいたのだろう。
いや、自分のリスクを踏まえた発言こそがそう思い込ませてしまったのかもしれない。

セカンド・オピニオンは疎か、ネットで情報収集する事も出来ない時代。
心の準備が出来ないと患者の立場、そして家族の立場で事態を考えなかった甘さ。
羊水検査どころかエコーすらない高麗。お腹の赤ちゃんにリスクがあるかもと伝えられれば、怖いのも無理はない。
まして過去にそんな経緯や経験があったなら。

医師として正しい行いが、患者に正しく伝わるとは限らない。ただ不安を煽り、極端な行動に走らせる事もある。
自戒しなければならない。ただでさえデリケートな問題だ。

ウンスは自分の力の足りなさに、今日もまた唇を噛み締める。
それでも学ぶ。全てを力に。同じ失敗を二度としないように。
「オク公卿様」

ウンスの呼び声に、公卿は庭を見ていた目を戻す。その目を正面できちんと見てから、ウンスは深く頭を下げた。
「ごめんなさい。何も知らないで、不安にさせる事ばかり言って。
でも私は医者だから、たとえ1000人に1人の発症の可能性だとしても、危険性は説明しなきゃいけないんです」
「よく判っております。医仙が詫びる理由はない」
「だけど・・・」

その時裏扉が静かに開くと、茶碗を一つ握ったチェ・ヨンが部屋に入って来た。
真直ぐテーブルまで戻って来て手にした器をウンスの前に置くと、その顔を覗き込むように
「口は」

尋ねるチェ・ヨンの声に、ウンスは舌を突き出して見せる。
「紅い」
チェ・ヨンは如何にも不愉快そうに吐き捨てると、診断を仰ぐようキム侍医へ目を遣った。

「どうだ」
「熱い茶を一息に飲めば、これくらいは仕方ありません」
「よく診ろ」
侍医は小さく笑うとテーブル上の灯を引き寄せ、突き出したままのウンスの舌をその光の許で確かめる。
「ウンス殿、痛みは」

侍医の問診に舌を出したままで、ウンスは首を横に振る。
「脈診もいたしますか」

そんな大ケガでないのは自分が一番知っていると、ウンスは慌ててもう一度首を大きく左右に振った。
侍医はそんなウンスの様子に頷いてからチェ・ヨンに向き直り、
「水疱も出来ておりません。チェ・ヨン殿のお持ち頂いた水を飲めば、すぐに治まります」

そう言って、再び口を閉ざす。
ようやく舌をひっこめたウンスが、もう一度オク公卿に話しかけようと口を開きかけた途端。

「親が怖ければ、一生子でいろ」

チェ・ヨンはウンスの正面に腰掛け直しながら、低い声で呟いた。

 

 

 

 

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