2016 再開祭 | 棣棠・拾伍(終)

 

 

「て・・・」
大護軍に俺の愚策が露見した翌朝の、晴れ渡った鍛錬場。
早朝の朝陽の中に俺と大護軍、二つの影だけが長く伸びている。

いや、真直ぐ伸びているのは大護軍の影だけで、もう一つの影は地に貼り付くような低い場所にある。
何しろ影の主の俺が足腰立たず、地面にへたり込んでいるせいで。

一番鶏の声より早く部屋の戸を叩いた烈しい音に飛び起き、それを開けて外を覗くと、廊下に大護軍が立っていた。
こんな早朝から着込んだ鎧。手に提げた見慣れた剣。
大護軍は顎だけをぐいと上げて表を示し、振り返りもせず無言で廊下を歩き出す。

慌てて鎧を着込み、禄に顔も洗わずに鍛錬場へ駆けつけたまでは良かったが、まさか二人きりで鍛錬になるなど。

大護軍と呼びたくても、息が切れて先が続かん。
干上がる喉を振り絞り続けようとしたら、声の代わりに咳が出た。

目の前で噎せ返る俺を呆れたように見下ろすと、大護軍は大きな息を吐く。
「おい」
「・・・は・・・」
「鍛錬を付ける側がそんな事でどうする」
「・・・は・・・」

息継ぎをしているのか、返答をしているのかすらも判らん。
医仙が別人と知った昨日の今日で、何故こんなにも元気なのだ。
いや、昨夜の俺の浅謀を知っての鍛錬なのかもしれん。

大護軍に鍛錬を付けて頂けるのは嬉しい、兵ならば誰にとっても願ってもない機会だ。
それはよく判ってはいるが、今朝のこれは余りにきつ過ぎはせんだろうか。

大護軍と戦場を共にしてじき十年、これ程まで厳しい鍛錬はついぞ受けた憶えがない。

「お前の後はトクマンの鍛錬がある。その後は西京軍との鍛錬だ。後が詰まってる。さっさと立て」
「・・・ト・・・」

俺とトクマンのみ、大護軍との一対一の鍛錬。そしてその後、予定通りに西京軍との鍛錬まで。
やはり大護軍は昨夜のあの愚策を、今でも相当根に持っている。

それでも自業自得と、俺は揺れる膝に手を置いてどうにか地面から立ち上がる。
そんな様子を涼しい眸で眺めた大護軍は片頬で笑み
「腹を刺すよりはましだろ」
と、愉快そうな声で言った。

 

*****

 

「大護軍」
最終日の鍛錬後、西京兵舎の大広間。
春の夕陽に淡々と照らされた西京将師が濃い疲労の滲む掠れ声で、俺の名を呼ぶ。

鍛錬場の隅々まで行き渡るよう、連日怒鳴り続ければ無理もない。
ここ数日の鍛錬で、西京の軍にも一通りの武技を伝えた。
どの兵も俺達が最初に訪った数日前より一回り頬が削げた。
精悍と言えば聞こえは良いが、正直疲れ切った顔をしている。

それでもそれを補って余りある、充実感に満ちた笑顔が並んだ。
「今日まで、本当にありがとうございました」
「おう」
「夏の北伐でお会いできるのを楽しみにしております」
「鍛錬を欠かすな」
「はい!」

それでも誰一人として脱落せず、死なぬ程度まで絞り上げた鍛錬を無事乗り切った。
この男に恥をかかせるまいと思っての事なのだろう。
それ程部下に慕われるなら、尚更右軍将に相応しい。

良い軍になる。そしてこの男は良い将になる。
俺のこうした勘は外れない。
西京将師はようやく緊張した顔を少し緩めると、改まった声で尋ねた。

「お礼と言っては何ですが、開京へのお戻りの前に、もし宜しければ先日の妓楼で一献を差し上げたいのです。
先日はお楽しみ頂けず、妓楼の主も心配しております。何か大護軍のご気分を害するような粗相があったのではと」
「気にするな」

あの方に生き写しのナンヒャンの居る妓楼。
出向けば会えよう。そしてまた何かしら道標を授かるかも知れん。

それでも俺にはもう必要ない。
あの方の面影を宿す女人との再会も、これ以上の神託も。
濃緋の夕陽の中で見れば、あの黒髪も紅く映えるだろう。
それを見てしまえば、遠いあの方への恋慕が募る一方だ。

もう良い。起きていても寝ていても、いつもあなたの気配がある。
心の中の面影を追えば、この先がどれ程長くとも待っていられる。

「楼主に伝えろ。チェ・ヨンの焼酎徒の噂は大嘘だ、実際は下戸だと」
その声に西京将師は顔色を変えて頭を振った。
「とんでもありません。言える訳がありません。そんな、大護軍の名を貶めるような嘘を」
「下戸はまずいのか」
「大護軍は最上で最高の方です。高麗武士としての戦果も戦術も、将としての兵法も統率力も。
武技も指南も、そして武臣としても、王様からの御信頼の篤さも」
「最強の酒豪は自慢にならん」
「自分達全員の目指す方です!」
「止めておけ」

同じ轍を踏むなど碌な事にならん。
天界で攫った女人に振り回され、暁の寝台で膝を抱える事になる。
それでも恋しいのだから仕方ない。
望んで振り回され、釘を刺されても共に居たいと請うるのは己だ。

「では」
黙りこくった俺を見兼ねたチュンソクが取成すように声を掛けた。
「大護軍好みの酒房で呑みますか。それとも酒を運ばせますか」
「運ばせる。チュンソク」

奴は心得ていると言わんばかりに懐を掌で押さえて見せる。
その中に入った銭が続く限り、今宵は呑もう。
払いを任せたこいつも安堵して酔えるように、兵舎の中で。
「迂達赤が振る舞う。鍛錬の終い酒だ」

俺の声に広間の兵らから歓声が上がる。
その騒ぎの中、一人顔色を変えたのは西京将師。
「お前らは黙れ!大護軍、鍛錬を付けて頂いた上に酒まで振る舞って頂くなど、絶対にいけません」
「俺は静かに呑みたい」
「では自分達が御馳走いたしますから、どうか」
「年上の言う事は素直に聞けよ」
「大護軍・・・」

将師は困った顔で俺の横に一歩寄ると、声をひそめて頭を下げ
「申し訳ありません。齢だけは、自分の方が上です」
と、俺にだけ届くように小声で呟いた。
その顔を確かめると、奴は身の置き所がなさそうに俯いている。
「・・・済まん」
小声の遣り取りに、チュンソクが可笑しそうに肩を震わせた。
「では、大護軍。酒房に酒を手配してきます」

奴が一礼して広間の扉へ歩き出すと、西京副将が慌てたようにその背を追い駆ける。
「迂達赤隊長、それでしたら俺達が行きますから、どうか」
「いや、大護軍は一度言い出すと聞かぬ方だ」
「そうはいきません、隊長もああ言っております」

果て無く続きそうな押し問答に痺れを切らし、俺は一声吼えた。
「煩い!」
声が大き過ぎたか、広間中の全員が動きも声も止め此方を見る。

「チュンソク、副将」
「は」
「はい、大護軍」
「酒代は割勘定にしろ。トクマニ、テマナ」
「はい!」
「酒房で酒を注文して来い」
「判りました!」

これで収まったか。
再び動き出した広間の中、俺より年嵩と言った将師が、まだ納得しきれぬ困惑顔で頭を下げる。
「何から何まで申し訳ありません、大護軍」
「酒絡みの騒ぎ如きで頭を下げるな」
「・・・はい」

あの方以外の女人は要らぬ。唯でさえ周囲の男共が未だにこれ程手を焼かせる。
それでも神託擬きを授かった以上。

─── 天火同人。

今は孤独に苦しみ、物事がうまく進まぬと悩んでも、心広く人と接し志を共にする者と居れ。
それがこの先の道を開く。何れ安易な道を選ばず初志を貫徹する事。

風の中、寂れた酒房で聞いた声が耳に蘇る。
あの方とよく似た、それでもあの方ではない声。
俺を温める事は決してない声。

それでも確かに道標にはなった。
そして夢であの方に逢えたから、俺はもう孤独ではない。
うまく進まぬと悩みもしない。
何故ならあなたは言ったから。

逢いたいから絶対に死なない。帰るまで、笑顔だけを覚えてて。
逢いたいです、隊長。

逢いたいです。隊長。

きっとまた夢で逢える。帰って来るまで幾度かは。
ただ信じて待てば良い。
あの笑顔と涙と嘘の無い声が、あの方を俺の許へ帰す日を。

それには志を同じうしたこの男達と共に居る事。
奴らと為すべき事を為し続ける事。

最後に逢えた日が遠くなるのではない。
再び逢える日が一歩ずつ近付いて来る。

 

逢いたいです、隊長。

 

無理して浮かべた作り笑いではなく、逢いたかったです隊長と、曇りない笑顔で言って頂ける日が近付いて来る。
降り続ける雪はないように。冬が終われば春が来るように。
「ところで、大護軍」

鍛錬終いの開放感も手伝って、どの兵も浮き立つ広間の中。
想いに耽る俺の横、西京将師は遠慮がちに尋ねた。
「ナンヒャンはお気に召しませんでしたか。開京にはあれ以上の美妓が大勢居るのでしょうか」
チュンソクが止めるより早く尋ねるのを見ると、やはり腹の中には小さからぬ蟠りが燻っているのだろう。

答える必要はない。
但し今後を考えるなら、答えずに蟠りが残るままなのも上手くない。
チュンソクは気遣わし気な顔で、口を挟めずに俺達を見詰めている。
いつまでも役目以外の事に気を散らし、禄でもない愚策を再び講じられるのも嬉しくない。

「顔だけなら、あれ以上の美女はおらん」

俺の答にその場の全員が納得したように頷いた。
西京の顔も潰さず、チュンソクも安堵できる答。
そして何よりあの方と生き写しなのだ。美しくない訳があるか。

ただ俺の待つ方ではなかった。俺を温める方でも。
夢の中であの方に逢う契機、そして待ち続ける道標をくれた女人。

いつかお前たちに見せてやりたい。ナンヒャンと並ぶ、俺の大切なあの方を。
それで全ての答が判るだろう。全員が腰を抜かすほど驚く顔が眸に浮かぶ。

その時まではこいつら誰一人失わぬように。
直に届く酒を待ち、俺は夕暮れの広間に据えた卓の椅子に腰を下ろした。

 

 

【 2016 再開祭 | 棣棠 ~ Fin ~ 】

 

 

 

 

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5 件のコメント

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    ウンスとナンヒャンが並んだら…
    そりゃ~ビックリ!!
    美女が二人…
    それも、そっくりで…
    もしウンスが帰ってきて、そんな機会がきたら、
    西京の兵士たちの顔、見てみたいなあ!
    ヨンの答え、さすがでした。
    ウンスは最高に美しい。
    開京にも、ウンスほど美しい女性はいないもの。
    顔は、ナンヒャンも同じ。
    心も、良い人なのだと思う。
    でも、ヨンを暖めてくれる女性じゃないから。
    すべ~~て合わせると、ユ・ウンスしかいない。

  • 正直なところ、何もかもそっくりさんだから、ヨンは寂しさに負けてしまうのでは・・・と心配していました。待ってる身はつらいし、4年は長い!しかもモテるしなあ~って。
    男は女より待てないよね~って。
    でも、ヨンの心情も汲んで、それでもとっても納得のストーリー展開で、素晴らしかったです。よいお話しをありがとうございました。
    とても感動しました。

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