2016再開祭 ｜ 鹿茸・壱

「ねーえ、ヨンア」
碌な事がない。そんな風に瞳が輝いている時には。
いつもと確かに何処かが違う、こんな甘えた猫撫で声で呼ぶ時には。
「･･･はい」

昼餉の後の卓。典医寺の私室で向かい合ったまま頷けば
「お願いがあるの。ヨンアにっていうより、多分テマンの方が絶対に適役なんだけど」

俺よりも適役。 俺よりテマンの方がこの方の役に立つという意味か。
その物言いがほんの少し癇に障り、眉根を寄せた俺を確かめた瞳が、しまったと言うよう丸くなる。
「あああ、違うのよ？勘違いしないで」

慌てた首を振られても、遅きに失した感がある。
何がどう違う。尋ねる前から違うと言うのがそもそも怪しかろう。
テマンが役に立つのは嬉しい。そして俺以上に奴は喜ぶだろう。
それでも面白くない事には変わりない。
相手がテマンだろうとチュンソクだろうとヒドだろうと同じ事だ。

「違うとは」
「あのね、テマンに鹿を捕まえて欲しくて」
「･･･鹿」
鸚鵡返しの声に、この方は深く頷いた。
「うん、そう。鹿」
「射って参ります」

卓に寄り掛けて立てていた鬼剣の柄を掴んで席を立つ。
俺の弓の腕は信用出来ぬか。いつも剣ばかり振り回しているとでも思っているのか。
馬鹿にするな。あなたが欲しいなら鹿の一頭や二頭、今すぐ射って担いで来てやる。
何故わざわざ弟分に頭を下げて頼まねばならんのだ。

眸を向ければ窓外の陽はまだ高い。
春の盛りの今、山中で鹿を見つけるのもそう難しい事では無い。
北の松嶽山で鹿を射って戻っても日暮れには充分間に合うだろう。

そのまま踵を返した俺に驚いたように、背後であなたが椅子から立つ音が響く。
「た、タイム、ヨンア！射ってって、そんな事する必要ないから！」
「鹿が欲しいと」

半ば駆け出ていた扉前、制止の声に渋々肩越しに振り向けば
「欲しいのは角だけなんだってば！だからテマンに頼もうと思って」

角だけ。
その声に興味を引かれ、肩ごと体を廻しあなたへ向き直る。
どうにか俺を引き止めようと焦った様子で両掌を動かし、あなたが言い募る。
「角だけ。鹿茸っていう、春に生え変わったばっかりの、まだ育ってない鹿の角が欲しいの。
生薬だから。もちろん一頭つかまえてお肉はジビエっていうのもありだろうけど。
王様や媽媽にお出しする鹿茸は、普通に山にいる鹿じゃダメらしいの。専用の牧場がある」
「はい」

この世の仕来りに慣れて来たこの方のおっしゃる通り。
皇宮専用の医局の典医寺が在るように、王様と王妃媽媽にお出しする物御口にする物は、全て出自を明らかにせねばならん。
食材や薬は元よりお召しの絹衣を染める草、絹糸を生む蚕の餌に至るまで。
何時何処で誰がどのように作り、取られたものか。

走り出かけた扉から、この方の前へとゆっくり戻る。
それに気分を良くしたかこの方は懸命に声を続ける。
「その牧場の鹿の角。薬食は考えてないから鹿を殺さずに、角だけを取って欲しいの。
でも牧場は広いらしいし、その中で鹿を追っかけて角だけ切るんなら、テマンが得意そうかなって」
「･･･確かに」

鹿を射るだけなら俺にも出来る。
だが鹿は生かし角だけを切り取るなど、考えた事もない。
「角が大きければそこに縄をかけてつかまえて、押さえて切れる。
だけど、何しろ今の時期の角は生え変わったくらいで、これくらい」

この方は眸の前で、細い親指と人差し指を伸ばして見せた。
「これ以上大きいと薬効が落ちるし、でもこの長さじゃ角に縄をかけられないし。
下手して首や足に縄がかかったら、鹿が弱ったり足が折れたりしそうだし･･･
だからってどこに縄をかければいいのかも分からないし」
「ええ」

牧場の柵内を俊敏に動き回る鹿。
狙いを付け縄を掛け押さえて角を切る、それも鹿を傷つけぬように。
確かに奴の方が俺より得手かも知れん。そうかも知れんが。

「だからテマンにお願いしたいの。トギが一番詳しいから付き合ってもらうつもり。
話したいから今日の帰り、テマンも一緒に連れて来てくれない？」

弟だ。それでも面白くない事には変わり無い。
この方の望む事を俺以上に熟す奴が居る事が。
事の成否でなくこの方がそう思っているのが。
そんな胸裡など知らぬあなたは拝むように小さな両手を合わせると、両指の影から俺の顔を仰ぎ見た。

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