2016 再開祭 | 玉散氷刃・柒

 

 

夜の典医寺は、静まり返っていた。
春とはいえ夜が深まれば、部屋の中の空気は冷たくなっていく。
ウンスはさっきから、部屋の火鉢を焚こうかどうか悩んでいた。

休む患者を刺激しないように、照明の油灯を落とした部屋の中。
ベッドには静かに目を閉じたままの女性患者がいる。

浮腫がひどく、足を押すと指の跡が3分近く戻らないほどだった。
医者としてウンスが一番不安なのは、妊娠高血圧症候群。

血圧計すら手に入らない高麗で、21世紀でも発症原因不明な妊娠高血圧症候群だと安易に断定する事は出来ない。
けれど浮腫がこれほどひどい以上、耳鳴りや偏頭痛の自覚症状がないから、イコール高血圧ではないと断言する事も出来ない。

患者に問診した最終月経から逆算する限り、もう32週の境界線は超えている。
これ以上母体と胎児の双方を危険に晒すくらいなら、帝王切開も視野に入れる時期だった。
但しここが21世紀で、NICUの完備された病院で、室温管理ができ、保育器があり、酸素濃度が調節でき、人工呼吸器があるなら。

部屋に火鉢しかない現代の高麗。 帝王切開の後、すぐに母乳育児に移れるかどうかも分からない。
もちろん人工ミルクはない。つまり産んでも乳児の食糧がない。
患者の夫は王に仕える高官と聞いていたから、いざとなれば乳母を手配する事は出来るだろう。
しかしそうそうタイミングよく、周囲に出産したばかりの女性が見つかるかどうかも分からない。
オンという高官の夫に乳母を探すように提案はしたけれど。
そんな状態なら浮腫が進行しないよう運動と食生活を指導管理しながら、自然分娩の時期を待つのが最善と判断した。

 

ブリーフィングでキム侍医はウンスの意見に賛同した。
懐妊の陰虚に加え、血が胎児を養うようになると陰虚火旺を招き、その虚火が心肝に乗じるため心煩が引き起こされている。
そんな判るような判らないような所見と共に。

「つまりどうしたらいいの?」
ウンスの端的な質問に、キム侍医は
「懐妊中の女性に必要なのは安胎、留意すべきは三禁です」

また新しい情報かと、ウンスはメモを取る為に机の上に置いてある硯箱を開け、中から紙を一枚ひったくった。
「三禁ってなに?」
「多汗、瀉下、多尿です」
「うーん、なるほど」

妊娠時に限らず注意すべき症状だと思いながら、ウンスは頷く。
キム侍医はウンスの理解度が低いと踏み、もう少し詳しい説明を加える。

「多汗は陽の気を、瀉下は陰血を傷め、多尿は津液を損ないます。
大黄や黄麻、乾姜、その他駆瘀血の効能のある薬草も使えません。
子流しの酸漿は無論のこと、薏苡仁や蘆薈も禁材です」
「薬湯の材料や、食事にも気を付けろってことね?」
「ええ。おっしゃる通りです」

ウンスは溜息をついた。
医官である以上、そして王妃の妊娠出産を無事に済ませる事である以上、どんなケースの出産にも関わりたいと思う。
心臓から整形へ、外科の分野でしか経験を積んでいないウンスには産婦人科の分野は医学生当時の医学知識しかない。

外科治療が絡めば誰にも負けない自信はあるが、自然分娩なら自分より、500人の出産に立ち会った産婆の方が経験豊富だろう。
いや、3人産んだ母親でも自分より知識があるのかもしれない。

しかし良い医者は経験のあるなしではないと、自分を励ます。そんな事を言い出したらキリがない。
腕の良い心臓外科医は、全員心臓麻痺の経験がある?腕の良い脳外科医は開頭手術を受けてる?ありえない。
そんな状態なら良心的なドクターであればあるほど、患者を危険な目に遭わせないように、第一線を退くべきだろう。

そんな昼間のブリーフィングを思い出し、薄暗い部屋で息を吐く。
患者の呼吸も脈も何ら変化は見られない。こうして一晩付き添っていても、また徒労に終わるのだろうかと。

それでも患者から離れるのは不安だった。
妊娠高血圧症候群なら常位胎盤早期剥離、胎児の発育不全、最悪のケースで子癇も考えられる。
子癇の理由が脳出血だったり、痙攣が収まらず脳ヘルニアになればどちらも命に関わる症状だ。
速やかに胎児の娩出が必要になるし、優生保護の観点から考えれば、母体の救出が優先される。

いつ来るか分からない、いや、そもそも起きるかどうか分からない。
そんな症状に備えて、典医寺を空にすることは出来ない。
かといって自分がこれから2か月近く、家に帰らずに当直を続けることも不可能だ。

多汗はダメというなら、極端に部屋の温度を上げるのも考えもの。
ウンスは最終的にそんな結論に行きついて、念のために患者の上にもう1枚、出来るだけ肌触りのいいブランケットを掛ける。

肩まで包んでそっと触れても、患者が起きる様子はなかった。
これだけ安定していれば、次の薬員の見回りの時刻まで様態の急変が起きる可能性は低いだろう。

最後にもう一度脈を取り、変化がないのを確かめて、治療室の裏口扉をそっと出る。

 

誰もいない廊下で、ようやく大きな溜息をつく。
はぁぁぁぁぁ、と長いその音が、今日の疲れと緊張を物語っているようで、我ながらおかしい。
廊下の先の自室まで疲れた足を引きずって、ようやく部屋に戻る。
でも長い1日はまだもう少し終わらない。

治療記録を取っておかなければいけないと、ウンスはテーブル上の硯箱に手を伸ばした。

 

 

 

 

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