2016 再開祭 | 玉散氷刃・捌

 

 

手を伸ばして筆を取り上げながら、ウンスは小さく微笑んだ。
あの人はもう寝ただろうか。
逢いたい。 こんな時だから、余計にそう思う。

目の前の患者に集中している時は考えないで済むけれど。
でもその緊張の糸が途切れた時。長い治療が終わった時。
まるで1日頑張った自分へのごほうびのような、ホッと息が出来る、そんな瞬間に。

メールも電話もSNSもないから、苦しいくらい逢いたくなる。
そんな時、やっぱり21世紀の習慣は怖いと思う。
簡単に連絡が取れるというのは、こんな恋しさを忘れさせる。

一目でいいから顔を見て、あの大きな手で頭を撫でて欲しい。
頑張ったね、えらいね。そんな一言でいいから言って欲しい。

不自由させてる。不便もかけてる。私には絶対に言わないけど。
ご飯もろくに作れない、いや、それは業務の時間的な制約ではなく、技術面での問題かもしれないけど。
21世紀でもこんなに好きに自由に仕事をさせてくれる、理解のある、心の広い男はそう多くないだろう。

ありがとう。でも私は自分勝手だから、こんな時は逢いたくなる。
ごめんね、いつもありがとう。そう言ってあなたを抱きしめたい。
明日の朝、当直が明けたらまっさきに迂達赤に行ってみようかな。

そう思いながらウンスが握った筆の先を、慣れない手で硯の墨へ浸した時。

揺れる油灯の中、動いた影が視界の隅の壁に映る。

やだ、以心伝心? もしかしてあの人がこっそり来てた?
「・・・ヨンア?」

笑顔で顔を上げたウンスは、ようやく目の前の灯の中に現れた影の顔を確かめ、その表情を凍らせた。

「誰」
「お静かに、医仙様」
「誰なの!」

ウンスは今まで見た事もないその男に鋭く叫びながら椅子を立つ。
その椅子は静まり返った典医寺の中、驚くほど大きな音を立てた。

「医仙様、オク公卿の遣いで参りました」
「お、ク公卿・・・あの妊婦さんの、旦那さん?」
「奥方様がお眠りの部屋には入れませぬ故、こちらでお待ちしておりました。御無礼をお許しください」

その男は乱暴するわけでもなく、丁寧に頭を下げた。
でもおかしいと、ウンスの第六感が言っていた。

妊婦の夫の遣いがどうして部屋に無断で入ったのか。
主の妻の入院する病室に入れないと言うなら、部屋の外からひと声かければ済む話だ。
第一何故自分の部屋がここだと知っていたのか。
確かに夫である高官と何回か会い、病状を聞いたりブリーフィング結果や治療方針を告知はした。
けれどプライベートなこの部屋の事まで教えるわけがない。

すばやくまわりに目を走らせる。
他に侵入者の姿はないが、この男に気付かなかった自分の勘になど自信は持てない。
ウンスはぎゅっと唇を噛んだ。

今自分が握っているのは筆1本。
せめてメスなら武器にもなるが、 筆では戦うだけムダだろう。

第一この男が本当に高官の遣いなら、ここで騒いでチェ・ヨンや典医寺、王や王妃やチェ尚宮に迷惑をかけるような事にはしたくない。
騒ぐなら最後でも出来ると覚悟を決めて、ウンスは目の前の男を失礼にならない程度に真直ぐ見据えた。
「オク公卿が、私に何かご用ですか」

ひとまず深呼吸をしながら聞いてみる。
確かに廊下の向こうには、今は安定しているものの油断はできない妊婦が眠っている。下手に自分が騒いで刺激するのも困る。
そして侵入者の男は騒ぎ立てないウンスの様子にようやく安心したように、ゆっくりと低い声で言った。

「実は緊急の病人が出まして。公卿より、医仙様であれば信頼が置けるので、往診をお願い出来ぬかと」
「だって、奥様が重病なんですよ?今私がここを離れて、もしその間に奥様に万一のことがあったら」
探りを入れるように尋ねるウンスに、逆に男は不思議そうな顔で問い返す。

「医仙様と御医より説明を受けたと、公卿から奥方様の病状は伺っております。
急変の可能性は低く、何かあった際にも典医寺であれば必ず他に医官の方々がおいでだと。違うのでしょうか」

この落ち着き払った物言い。
そして確かに自分とキム侍医が、オク公卿に伝えた通りの内容。

本当なのかもしれないと、ウンスの心も揺れる。
本当にこの男の言う通りで、この男はオク公卿の遣いで、緊急を要する病人が出たのかもと。

ひとまず筆では戦えない。ペンは剣よりも強し、はこの場合当てはまらないのだ。
緊急の病人なら、状態によって薬品も縫合セットも必要だろう。
「ですので、一緒においで頂けませんか。すぐにお送りします」

ウンスの動揺を見透かすように、男は更に声を重ねる。
「・・・わかりました。ひとまず、道具を用意します」
ウンスは言いながら、棚に置いたピンクのポジャギを取り上げる。
「患者はどんな容体ですか。外・・・体のどこかが切れた?それとも何かの病気?」

ポジャギをテーブル上に用意して、男に向かうと時間稼ぎにそう聞いてみる。
「それが」

――― ウンス様。

男が何か言いかけたところで、診察室の方から廊下を近付いて来る薬員の声がした。
焦っているような声ではない。ただ妊婦に付き添っていたはずのウンスの姿が見えなくなって、探しているのだろう。
「ウンス様、どこですか」

声はもう、廊下に面した裏扉と目と鼻の先まで近寄っている。
その瞬間ウンスが声に応える間もなく、今まで穏やかだった男が素早く動いた。

正面の灯の中からウンスの真横まで飛び着くように駆け寄ると、
「申し訳ありません、医仙様」
とだけ言って、ウンスの口に布を噛ませる。

ウンスは何も出来ないまま、咄嗟に持っていた筆でテーブルに文字を残す。走り書きのハングルで。

도와주세요

助けて下さい

男はそれを字だとすらも思わないのだろう。
全く注意を払う事はなく、ウンスとポジャギを肩にひと抱えにして、部屋の表扉から真っ暗な庭へ飛び出した。

そしてウンスの目には、離れていく自分の部屋の窓の向こうが見えた。
裏扉から当直の薬員が顔を覗かせて、首を傾げてからまた扉を閉めるのが。

 

 

 

 

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2 件のコメント

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    こんなにヨンに逢いたくて逢いたくていたのに、
    拐われちゃったのね。
    ますます、ヨンに逢えないよ。
    薬員さんで見ていたの人、いたんだあ。
    何も感じなかったの?
    ヨンに、状況を伝えてよ。
    ウンス、待っていて!
    必ずヨンが、助けるからね!!

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