2016 再開祭 | 眠りの森・柒

 

 

板張りの廊下を此方へ向かう小さく軽い音がする。
「ヨンア」

書き物の筆を置き呼び声に振り向くと、居間との境の扉蔭から亜麻色の髪が傾いて流れた。
廊下向うの庭から射す春の陽が、流れる髪を柔らかく照らす。
眸が細まるのはその陽の所為か、それともこの方を見た所為か。

「どうされました」
「部屋の片づけが終わったから。お茶飲まない?」
「・・・おっしゃれば手伝いを」

何故俺の眸を盗むように、黙ってそんな事を。
思わず顔を顰めると、其処から瞳だけ出して覗いたこの方がようやく居間に入って、書き物机の横に座り込んだ。
「うん。あなたのお仕事が終わったらお願いしようと思ってた。でも先に終わっちゃったわ。書き終わった?」
「はい」

見上げる瞳の奥が淋しかった。どれ程三日月を描いていても。
連れて行けぬと告げてから、この方は何処か変だった。
「早く帰って来てね」
「はい」
「気持ちは、変わんないのよね」

声に詰まる。はいと頷くのは易くても。
抱き締めて膝に乗せ、頼むから共に来てくれと頭を下げ頼みたい。

あなたが居らねば何の為に戦うのか判らない。
国を守る為に俺達が離れていては意味がない。
あなたさえ横に居て下されば負ける訳がない。

それでも連れて行けない。此度の暴動の首謀者が禾尺である以上。

浅い春を迎えた庭の木々を揺らす温んだ風。
あなたの庭、俺を想い増えていく草花に溢れた薬園のような庭を強固に囲い護る高い壁。
そして離れに控えてくれるコムとタウン。
皇宮には叔母上がいる、そして王妃媽媽がおいでになる。
何かあればお二人が、必ずこの方を守って下さる。

判っていても胸の中だけが真冬のように冷えている。
庭も陽射しも吹く風も、その景色の中にいるこの方を独りきり置いて行くと思うだけで。

此処まで来てもまだ迷う。俺が護れば良いだけではないのか。
この方に見せたくない光景は背に隠し、この方の望む通りに漢城まで共に。

倭寇の名を騙る禾尺らを一掃し、揚廣道の保勝軍営に引き渡せば済むのではないか。

民らの間に確かにある差別。
隣の禾尺より己は優れているのだと思い違いを抱く貴族。
どの階級に生まれるかなど単なる運命の気紛れで、何一つ己の力で勝ち得た訳ではない。

それでもそんな思い違いが大手を振っている。
勝者の階級に生まれた奴らは疑う事無く贅を享受している。

そんな世に不満を持つ者が現れるのは自然の摂理だ。
どれだけ自分に力があっても、歩みを阻む壁がある。
目前にそんな壁があればぶち破りたくもなるだろう。
力のある者ならば尚更に風穴を開けたくなるだろう。

民が一丸となり隣国の侵入を防ぎ、力を合わせねばならぬ時だと判っているのに、実情はこの様だ。
他国の侵入者の名を騙り、自国の民が互いに足を引張りあって下らぬ差別で勝者と敗者の線を引く。

それでも王様にとっては、争う全員が御自身の民だ。
この方にとっては争う双方の心も体も守りたかろう。
俺とて同胞を好き好んで斬りたくはない。
ましてや此方に剣を向けぬならば絶対に。

「ヨンア」
温かい小さな手が、黙り込む俺の膝をゆっくりと揺らす。
「今回の戦も、北に行くの?相手は元か紅巾族?」
「イムジャ」
「キム先生が一緒に行くし、心配はないって信じてるけど、でも」

訴えるように俺を見詰める、この方は疑う事などないのだろう。
北は元と紅巾族、南海上には倭寇の船。
四面楚歌の高麗にあって国の中は団結し、その外敵に相対すると。
国を支えて共に立つと信じているから、どの民の心も体も大切で。

あなたの真直ぐな視線が痛い。逸らさねばならぬ己が辛い。
この高麗はあなたが信じるほどに美しくも清らかでもない。
そう伝えねばならぬのがこんなにも、胸が軋むほど惨めだ。
そんな世に、俺だけを信じて戻って来て下さったあなたの期待を裏切らねばならぬのが。

それでも無言でその頬に掌を当てれば、何の疑いも抱かずに、小さな顔を預けて下さる。
この世の民があなたほど清らかで馬鹿正直で真直ぐなら、戦など起こる事はなかろうに。

こうして信じて下さる俺には、民心に訴え掛ける力などない。
下らぬと知っていながら、その差別を止める方法も判らない。
憎しみ合い争う同胞を前に、斬るなとしか声を上げられない。

こうして国が疲弊していくのを為す術もなく見詰めるだけで。
あなたが心を砕く民が傷つけあうのに手を拱いているだけで。

誰より情けないのは、此処にいる己自身だ。
自嘲の笑みに歪んだ唇で、俺は息を吐いた。

 

 

 

 

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2 件のコメント

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    ヨン、高麗の今の実状を悩み、ウンスに知らせたくなく…、そんな思いが重なったのかな。
    目を背けたくてもできない現実。
    でも、少しでも、ウンスが心安らかに過ごせる高麗にしたいと願う事実。
    大切なウンスを想い過ぎ、現実から少しの間だけ目を背けたくて、己の夢の中に入っているのかな。
    3日3晩は、もう寝たのよね。
    その夢の中から、その世界から、ウンスに出してもらわなくちゃ。

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