2016 再開祭 | 棣棠・肆

 

 

まんじりともせぬ夜が更けていく。

西京兵舎の窓の外、稀に人の気配が近づいては去って行く。
今宵の歩哨なのだろう。その軍沓の足音をぼんやりと聞く。

あの方は、いや、あの女人は。
それでも二度と会う事はない。
数日西京の軍の鍛錬を確かめて力量を見定め、必要な武技を伝えて開京へ戻る。

戻れば迂達赤の役目が山積だ。
中軍の面々と軍議を立て、王様に夏の北伐の日程をお伝えし、三月もすれば出陣する。
そこまで考え、灯を燈すのも忘れた部屋の中で己に問い掛ける。

何の為にだ。

もしもあの方が、本当に帰って来たのだとすれば。
何かの拍子で立てた誓いの事を忘れたとしても、ああして此処に戻ったのだとすれば。
それなら一体何の為に北伐になど出征するのだ。
何の為に命を懸けて北へ向かう必要があるのだ。

あの方を待っていた。無事に帰るまで天門の近くに居たかった。
一刻も早く安全に戻れるよう、一日も早く北方を鎮めたかった。
戻ったのだとすれば、もう北方に出向く理由などない。
ただあの方を連れ、無事に開京まで戻ればそれで良い。

故領奪還など知った事か。
それが怠慢と言われるなら大護軍の官位などいつでも返上する。
それでも足りぬなら喜んで迂達赤を退き、皇宮を出ても構わん。

あの時己を過信し手を離した痛みも後悔も、一日たりとて忘れた事などない。
忘れられる訳がない。
何を失っても構わん。あの方以外に欲しい者、あの方以上に大切な物もない。
あの方が無事に戻ったとすれば、それ以上望む事など何一つ。

忘れたのなら思い出させる。思い出せるまで待つ。
共に居られるなら、眸が醒めてあの方が横に居るならそれで良い。
あの方さえ居て下さるなら、他の事は全てどうなっても構わない。

心は揺れ続ける。考え慣れぬ頭が痛む。
正面突破で答が出るでもない。出た答を納得出来るとも思えん。

あなたはユ・ウンスか。

そうだと言われれば俺に素知らぬ態度を貫いた理由が判らず、違うと言われればあれ程生き写しである理由が判らぬ。

寝台の上、眠気は一向に襲っては来ない。
刻だけが過ぎ、部屋内の闇は濃さを増す。
行き交う歩哨の足音は途絶え、無音の中に取り残される。

イムジャ。

今宵の女人があなたでもそうでなくとも、今は何も考えられぬ。
ただ愛おしくて、こうして離れているのは耐えられそうもない。

何処に走れば良いのか知らなかった時とは違う。
其処に居ると判っているのに走らないのは辛過ぎる。
それでも突き上げる衝動に任せこの足が走り、この指が触れたあなたがもしも別人ならば、俺は己を生涯赦さない。

テマンは戻らない。チュンソクもトクマンも部屋を訪わぬ。
奴らも如何して良いものか、考えあぐねているのだろう。

長い夜が焦々と過ぎていく。手も足も出ぬ俺を嘲笑うように。

 

*****

 

大護軍が妓楼を飛び出して行った気持ちが、痛い程判る。
大きな音で閉められた扉。いつもならば王様と迂達赤の面目にかけ、人前で乱暴な振舞いはしない人だ。

音高く閉められた扉を見詰めた後で、部屋中の者が息を吐く。
「私たち、何か粗相をしましたか」
上座に一人取り残された医仙・・・いや、ナンヒャンという女人が、不安げに扉を見た後に俺達へ確かめる。
燈籠に照らされる顰めた柳眉も、尋ねる声音も、少なくとも俺の記憶の中の医仙と瓜二つだ。

大護軍の常軌を逸したように見える振舞いも、宜なる哉としか言いようがない。
あれ程待っている医仙としか思えぬ方が、前触れもなく目の前に現れてしまったのだから。
しかし判るのは迂達赤だけで、西京側にしてみれば何が起きたか判らなくても仕方がない。
ナンヒャンと名乗った妓女に続き、西京将師が心配そうに
「自分が返答をお待たせし過ぎたせいでしょうか」
と、俺に向き直って問うた。

「いや、そうではない。心配せずに」
そうとしか答えられん。大護軍の私事を事細かに伝える事は決して出来ん。
誰より大護軍ご自身がそれを望まんと知っているから。
出来る限りいつもと変わらず、それには触れず日々過ごして頂くしかない。
迂闊に触れれば叫び出しそうな傷だと知っているから。

徳成府院君奇轍に攫われた医仙を追って大護軍が開京を飛び出し、お一人で半死半生で見つかった時。
そしてその傷を癒す間も、俺達は決して委細を尋ねたりはしなかった。
健康を取り戻した大護軍が王様にひたすら上訴し、憑かれたように北方へ出向くようになったのを見れば判る。
稀に俺達が同行しても、目を離せばあの天門のある丘の欅の下、刻の許す限り一人で居たがる様子だけで。

待っているのだ。そして信じている。必ず帰ると。
でなければ無駄を嫌う俺達の大護軍が、あんな事をする訳がない。

床から跳ね立ったテマンは最後まで扉を見た後に床へ座り直し、トクマンは大槍を膝横に唇を結んだままだ。
互いに心得ているから誰一人、声一つ漏らす者はない。
しかし大護軍の中座で、場の雰囲気が変わった事は確かだった。
誰もが次にどうして良いか判らんように、戸惑った顔で互いを見ている。

そしてその雰囲気を変えたのはやはり医仙・・・いや、妓女だった。
今まで腰を下ろしていた上座から立ち上がると微笑んで
「大護軍様には明日にでも、改めてお詫びに伺います。ナウリ方、御耳汚しの伽倻琴でもいかがですか」

明るい声に西京軍も、そして部屋の他の妓女たちもようやく頷き
「それは良い。一曲頼もう」
「お姉さんの伽倻琴なら、私は瑟を」
そんな風に、再び声が部屋に飛び交う。

大護軍の後を追いたい気持ちは山々だ。恐らく俺達三人とも。
しかしこの場の雰囲気を壊さぬ事が今宵大護軍に与えられた最大の任の気がして、中座を申し出る事も出来ん。
「隊長、俺、俺だけでも」

堪えきれなくなったテマンの声に無言で首を振ると、奴も諦めたか唇を噛み締めて石のように動かなくなる。
医仙に瓜二つの妓女のつま弾く伽倻琴の音色に紛れ、迂達赤の三人だけがそれぞれの席で息を吐いた。

 

 

 

 

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3 件のコメント

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    簡単に ナンヒャンが医仙に似てるなんて
    口にできないものね
    この場の雰囲気を乱しちゃいけないし
    く、くるしい
    なるべくなら これ以上 大護軍に
    ナンヒャン近づかないでー!
    ( ̄Д ̄;;

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    お早う御座います。何処迄も、ウンスを、想い只只我慢強く待てるのか? ?そしてウンスは、何故早く戻らない!ヨンの心が、壊れる前に、早くヨンの元に、他の女性に、奪われる? ?

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    又々ごめんなさい。ヨンは、ウンスそっくりな人を、ウンスが、帰って来たと思わないですよね。そして聞かないですよね!挨拶に、来ると言って居たが普通に、見れますよね 。触れず。聞かず。酷だけど耐えて!ウンスが、ヨンの前に、現れて戻って来たと言う迄耐えて‼

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