「・・・随分早かったね」
足音に気付いて振り向きながら、厨の中のマンボは何故か不機嫌に唸る。
「ヨンと天女は帰ったよ。雨なんだからどっかで雨宿りしてくりゃ良いだろ。
こういう時に限って几帳面に帰って来るなんざ、全く気の利かない男だねぇ」
その雨の中に追い出した張本人が何を抜かすか。
呆れて肩に担ぐ二貫の荷を厨の隅に下ろす横、女が慌てて手拭を差し出した。
「ヒド兄様、濡れてます!」
それはお前の方だと、女の額髪の先から頬に落ちる滴に目を遣る。
視線に気づいた女は隠すように額を掌で覆い、それでも片手に握る手拭は此方へ差し出したまま。
か弱そうに見えて頑迷さも相当なものだ。 何しろこの睨みに一歩も退かず立ったままなのだから。
その手拭いを奪い、すれ違いざま女の濡れ髪の頭の上から落とす。
垂れた手拭いの端に女の視線が塞がれた隙に、黙って東屋を出る。
女は慌てて視界を奪う手拭いの端を指先で払い、雨の中に出ていた俺を呼んだ。
「ヒド兄様!」
煩い。女も、マンボも。
ヨンが女人と帰っていたのだけが救いだ。
あの女人も一緒になって大騒ぎされたのでは堪ったものではない。
「お風呂を沸かします。入って下さいね!風邪をひきますよ!」
振り向いて頷く気にもなれぬ。 一体何故こうなってしまったのか。
俺はただヨンに頼まれた最適な女を探した。最適な場所で。
こんな風に引掻き回される為にではなく、二重間者の遍照の許へ、最適な者を送り込む為に。
その女と俺の間に偶さか妙な因縁があった、ただそれだけの事だ。
それだけの事なのに、マンボもあの女人も何故あれ程に騒ぐのか。
そしてあの女は何故、あれ程俺にだけ懐くのか。
全てぶち撒け目を醒まさせてやりたくなる。
俺に懐くな。心を開こうとするな。お前の父を殺めた男に。
野辺送りの日、周囲の雑音に迎合しなかったのは良心ではない。
己の殺めた多くの男の内の一人、それ以上でもそれ以下でもない。
それでも。あの野次馬の誰が俺の所業を許しても、お前は許すな。
そうでなければならん。それでこそ人でいられる。
親を殺めた男を一生嫌って嫌い抜き、憎んで憎み抜け。
心を許して後で真実を知れば、俺だけでなく己をも殺したくなる。
教えた方が親切なのか。そうであれば一刻も早く。そうなれば女はこれ以上此処には居つくまい。
俺だけで判じられるものではない。ヨンの評判に疵がつく真似を、勝手にするわけにはいかぬ。
伝えるに越した事はない。奴にだけは一刻も早く。
己の過去でこれ以上多くの者を、これ以上引掻き回す前に。
秋霖に足を止め、昏空へ顔を上げる。遠慮なくこの眼の中に落ちる雨に打たれて思う。
天に吐いた唾は何れこうして自分に降って来る。所業に相応しい幕切れを望むだけだ。
*****
長い髪の上から被る笠の陰で、濡れずに戻れた事だけが幸いだ。
但しその所為で、雨雫だと言い逃れをする事は出来ん。
帰宅の門、コムが心配げにこの方を無言で確かめ俺へ目で問う。
その視線に顎だけを振る。理由が判らねば説明のしようもない。
出迎えのタウンもこの方の泣き顔に息を詰め、掛ける声を失った。
そうして帰るなり夕餉も取らず、この方は寝屋に籠った。
寝台の端、窓際に腰を下ろして、開いた窓からもう何も見えぬ暗い庭の雨音を聴いている。
涙を零し、窓枠に頭を預け、長い髪を垂らしたままで。
「イムジャ」
硬い木枠に凭れるくらいなら、この肩に凭れた方が良い。
小さな頭を持ち上げて掌で受け、そっと己の肩に移す。
動かした拍子に掌に落ちた涙の雫は、雨よりずしりと心に重い。
「如何しました」
あの女とほんの一時、厨に籠っただけだ。
偶さかのマンボの買い物騒ぎで。
浮かべ続ける涙の意味が思い当たらない。
依怙地に結ばれた紅い唇は、肩に凭れても何一つ吐かぬ。
── 許すのと許さないのは、どっちが簡単なのかしら。
何が言いたかった。あの中に答があるのか。 何を、誰を、何故。
これ程頑強に秘すとなれば、俺の事しか思い当たらん。
傷つけぬ為、知らせぬ為。しかしあの女が俺を知る訳がない。
正真正銘見知らぬ顔だ。ヒドが連れて来たあの初見の日まで。
あの女と縁があったのは、寧ろヒドの方だろう。
── 前に助けてもらったって。お父さんが亡くなった時に。
助けたのはヒド。助けた男の何を許すのか。
水州から連れて来た女。水州に逗留していた再会前のヒド。
「ヒドが何か」
黙って涙を拭いているだけでは事態は変わらぬ。
この方が受けた傷ならば、何があろうと癒してやりたい。
肩に凭れさせ、休ませるだけでは成せん。
細い両肩に手を掛け、そっとこの肩から引き離す。
寝台の上その瞳を覗き込んで尋ねる俺に
「誰が何を言っても信じないって。誰が何をどう言おうと自分の知ってるヒドさんを信じるって。ヨンア・・・」
その先を訊くのが怖いか。それとも訊く事で傷を抉るのが怖いか。
この方は、そのまま無言で俯いてしまう。
「イムジャ」
その両頬に掌を移し、どうにか顔を上げさせる。
逃げてばかりでは進めぬ。
起きた事、起きるであろう事を先んじて知らねば一手先が打てぬ。
「ヨンア。同じなの。私も同じ。何があってもあなたを信じてる。後悔なんてしないわ。
自分の選んだ道で、あなたと一緒ならそれでいいの。それだけでいい。だけど・・・」
俺が攫った。天界から無理に攫い此処へ連れて来た。それを言っているのか。
それとも俺の為に命を落とした者らか。奴らを思い出すなと言っているのか。
「イムジャ」
「ヒドさんは」
暗い寝屋の中、響く雨の音。
瞳を覗いた俺の眸に向け、この方は心を決めたように真直ぐ言った。
「ヒドさんは、パニャさんのお父さんを殺したの?」

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ウンス… パニャに聞いたの?
パニャ知ってたの??
許すのは 難しいけど
許さずにいるよりは 楽かも…
先に進むには
相手も、自分も許してあげなきゃねぇ
ウンス…泣かないで (๑•́_•̀๑)