2016 再開祭 | 貴音 ~序・典医寺 壱~

 

 

窓外にようやく訪れた、春の朝ぼらけ。
優しく霞む薄桜の明空の中。
暁鶏の時をつくる声と共に上掛けに包み、寝台の上から眠るこの方を攫う。
「・・・ん?」

攫われた腕の中、初めて気づいた長い睫毛が重げに上げる。
「ヨン、ア・・・どうしたの」

欠伸交じりの甘い寝起き声。
抱いたこの方を落とさぬようにとだけ、 細心の注意を払う。
何しろ寝起きの良くない方だ。確り掴まって下さるとは限らん。

袖に投げ入れておいた飯を渡し
「喰って下さい」
それだけ言うと、驚いたよう小さな両手が飯の包みを握る。
「刻が無い。参ります」

宅の玄関から出る俺に気付き、厩の中のチュホンが耳を立てると大きな黒く濡れた眼で此方を見る。
それに小さく首を振り厩に寄らずに門へ歩くと、不満げに地を搔く蹄の音が追って来る。
「ヨンさん」

既に門前に立つコムが尋常ならざるこの形相と、腕の中のこの方の姿を見比べて息を呑む。
「チュホンを頼む。機嫌が悪い」
「それは、もちろんですが。ウンス様に何か」
大きな体、優しい声で問い掛ける奴の脇を抜けつつ、眸だけで頷く。
「恐らく」
「大丈夫ですか」
「ああ」
「何か俺達で出来る事は」

その声に頷き、門を超えて最後に肩越しに振り向きながら
「この後には諸々頼む」
そう残すこの背にコムの声が掛かる。
「分かりました、気を付けて」

振り向かなくとも分かる。でかい背を折り奴が頭を下げた姿。
そのままの姿勢で、この背を律儀に見送ってくれている事を。

 

*****

 

「・・・チェ・ヨン殿」
侍医が掠れた寝起き声で、厭そうに呼んだ。
寝込みを襲われ、櫛すら入れる暇のなかった総髪が肩に落ちている。
「何だ」

朝が明けたばかりの、典医寺の診察部屋。
この方を抱えて飛び込んだ俺に叩き起こされ、ようやく夜着を脱ぐと医衣だけを羽織った侍医は、困り果てたように力なく笑む。
「そう喧嘩腰に睨まれると、四診がしづらいのですが」
「煩い」

その声に浮かべたキム侍医の薄笑いに、頭が割れそうに痛む。
「見るな」
「はい」
「この方だけを診ろ」
「畏まりました」
「ちょ、ちょっとヨンア」

いつにも増して不愛想な物言いにこの方が取り成すよう、キム侍医と俺を見比べる。
構ってはいられん。月の物が遅れて今日で丁度二十日。
「二十日だ」
「はい」
「普通か」
「まあ、普通ではないでしょうね」
「ならば」
「しかし御邸からご自身がわざわざ抱いて、運ばれるほどの病ではない」

からかうような愉し気な声まで、全てが癇に障る。
「黙れ」
「病ではない。まずはご安心下さい。拝診します」

そのキム侍医の大きな手、長い指がこの方の手首の血脈を探る。
捲った袖口から覗く白く細い手首を押し、緩め、もう一度押し。
「ウンス殿」
「なあに?先生」
「ご自身でも脈診されていらっしゃると」
「うん、そうよ」
「では覚えておかれると良いですね」

キム侍医が眸の前でこの方の手を取り、逆腕の細い手首に当てる。
そしてその手首に当たっている折れるほど細い小指を、己の指で教えるように指し示した。

「神門側、この小指です。寸関尺から外れても強く打っている。 お判りですか」
「うん。分かる」
「盆の上で珠を転がすような」
「前に他の先生たちにも言われたんだけど、そこまでは・・・」

この方が言い淀むと侍医は顔を上げ、俺にその目で問う。
俺が手首を差し出すとそのままこの方の小さな手ごと、この血脈へぴたりと指を添える。

「ご自身の現在の脈と、比べて下さい」
「この人の脈だけは、よく覚えてるんだけど・・・」
侍医の声にそう言いながら、この方は暫し無言で俺の脈を見た後、再びその指をご自身の手首に当て直す。
そして少しの間無言で首を傾げ、次に白い頬をぱっと染めた。

「わかる。わかった。これが珠が転がる感じ・・・なるほどね」
「チェ・ヨン殿の脈よりも、長い事も判りますか。そして強い。
チェ・ヨン殿は神門まで強くは打っていらっしゃいません。
まあさすがに、普通の者よりは余程しっかりした実脈ですが」
「うん、確かに」

頷いたこの方に、侍医が声を重ねる。
「長くとも弱くては駄目です。長く、強く、珠を転がすこの脈を憶えて下さい。
長くても指の間から溢れてしまう程に 強く太ければ洪脈です。それとも違う」
「うん、わかった」
「寒証が加わると長いが 弱くなる。沈めねば読めなくなります。
こうして当てるだけで触れるのは実証。熱証なら早くなる。これ程長くない。では実熱ではない。
食積は考えられますが、ならば関尺が触れる筈です。その脈は触れない。という事は脾や腎ではない。
寸にも触れぬから肺や心でもない。ウンス殿は月の遅れ以外、咳もない。という事は痰飲でもない」
「長くて強い、滑脈・・・脾や腎、肺や心じゃない・・・」

この方は妙に嬉し気に頷きながら、読み慣れた筈のこの血脈とご自身の細い手首との間で、何度も指を行き来させる。
「滑脈ってこんな風に打つのね?」
「そうです」
ようやく得心したようなこの方の笑顔に頷くとキム侍医は俺へ軽く一礼し、この手首から細い指をそっと外した。

「何だ」
この方の満足気な笑みは嬉しい。
しかし目前で侍医とだけ一頻り脈談義を交わされ、俺はすっかり蚊帳の外だ。
「ヨンア」

この方が袖口を捲ったまま、その白く細い手首を差し出す。
「読めた。チャン先生の時から教えてもらってた脈」
「イムジャ、脈はともかく」
「だってめったに取れる脈じゃないんだもの。もうちょっと一緒に喜んでくれてもいいじゃない」
「病なのですか」

滅多に取れぬ脈、その言葉に胸が詰まる。
それならば俺は必ず気付くと思ったのに。
顔色の変わった俺に、この方が慌てて首を振る。
「ああ違う、そうじゃない。そうじゃなくて、妊婦の脈って当然だけど、妊娠中しか取れないじゃない?」
「・・・・・・は?」
「媽媽の御懐妊を待ってるでしょ?皇宮ではこれまで妊婦さんがいなかったから、今初めて脈診したの。妊婦の脈を」
「イムジャ」

この方は今、とても大切な事を言っている。
判っているのに、その声がうまく聴き取れん。
聴こえているのに何処か遠くから響くようで。

ただ茫然と其処に佇み、嬉し気に俺を見上げる鳶色の瞳を凝と見る。
「ヨンアも記念に勉強してみる?妊婦さんの脈」
「イムジャ」
「妊娠中にしか分からない事がきっとたくさん起きるわ。自分のこの身体に。覚えておける。媽媽の時にそれが全部役立つはずよ」
「・・・イムジャ」
「うん」
「それは」
「うん、そうよ」

鳶色の瞳の色が、典医寺の窓から射す朝の光を抱いて淡く変わる。
その三日月に緩んだ目許。
縁取る長い睫毛の影も、白い頬も、すんなりした鼻も、紅い唇も、小さな顔の周りで踊る柔らかな髪も、何一つ変わらぬままで。

変わらぬままでこの方は、弥勒菩薩のように微笑んだ。
全てを抱き、癒し、包み、清める穏やかな優しい顔で。

「赤ちゃんが、出来たの。私たち」

高く甘い声すら変わらぬままで、あなたが小さく囁いた。

まるで天から降るような、貴い声音で。

 

 

 

 

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