2016 再開祭 | 桃李成蹊・14

 

 

「ジムに一緒に行くわけに行かないの。車の出入りをチェックするセキュリティカメラがあるって。
私も一緒ってばれちゃうとミンホさんやみんなも、それに今はあなたも面倒になっちゃうし」

朝餉すら拵える事は無い。既に整った膳が他の手で運び込まれる。
上げ膳据え膳とはこの事だ。寝屋で喰うなど王様でもあるまいに。

大きな窓から陽の射す部屋、膳を前に朝餉の席でこの方が言った。
その声に思わず音を立て、手にした銀匙を卓上へ戻す。

「どういう事です」
「うーんとね、ヨンアはミンホさんだけど、私はほら。万一その画像が流出したりすれば・・・
もう田舎に行ってる事になってるし、あなたと並んでたらこの女は誰?ってことになっちゃうし」
「俺の女人だ」
「もちろんチェ・ヨンの妻だけど、でもイ・ミンホは結婚してない」
「故に離れると」
「分かってよ。私はずっとここで待ってる。セキュリティは万全よ」

危険だから共に居たいのではない。そうではない。そうではなく。
この胸の裡をどうにか伝えたくとも、うまい言葉が見つからない。

ただ共に居て、笑う顔が見たい。ひと汗流して顔を見て、小さな手で脈を取って欲しい。

そんな慾すら叶わぬ立場、それがあの男の進む唯一無二の道か。
それでもこれ以上の不平は一度決めた己の道を違える事になる。
それを責め立て、この方に妙な引け目を感じさせるなど真平だ。

無言で頷いた俺を卓向かいで見つめ、細い指が匙を投げたこの指先を握り締める。
「帰って来るのを、待ってるから」
「大人しく」
「うん、約束する」
「何処へも行かず、皆に迷惑を掛けず」
「かけないわよ、やあね!子供じゃないんだから」

そうして笑うあなたさえいれば、身代わりだろうとじむだろうと。
一度受けると交わした誓いを破るわけにはいかん。
ミンホではない。あの女でもなく、周囲の誰への気遣いでもない。

この方の名に懸けて、俺がそれを破る事は絶対に。

 

*****

 

「驚きますよ。判ってるはずの俺でも忘れちゃって。ついタメ口で話しかけて、慌てて言い直してます」

俺の寝転がるベッドルーム、カウチに腰掛けた社長が苦笑いする。
ジムからヨンさんを連れ帰って来たチーフマネは、困ったみたいに鼻の頭を指先で搔いた。
「でしょうね。部屋ですれ違う瞬間に思うもの。あれ、ミンホ勝手にギプス外して!って、たまに叱りつけそうになるわ」
「そうですよね。ただヨンさん、家の中でウンスさん以外とほとんど話さないでしょ?そのウンスさんとですらものすごい短い会話だし。
でもジムでトレーニング中に、トレーナーと話してるその姿が」

チーフマネはそう言って、困った顔で俺をゆっくり見た。
「まるきりお前だよ、ミノ。明日ビデオ撮って来る。見た方がいい」

 

「バランス良くなった、ミノ君。そのまま腕伸ばして、5秒キープ!キープして。1、2、3、4、5!オッケー、下して!」

スマホで撮ったそのビデオ、トレーナーの懐かしい声がする。
マシンの触れ合う鈍い音、トレーナーとチーフマネの笑う声。
「病み上がりのほうが体力ついたね、ミノ君」
「・・・旨いもの食べて、充分休んだので」
「頑張りすぎじゃないか?無理すると明日筋肉痛だぞ」
「これしき・・・くらいじゃ、ならないよ」

カメラを向くことはない。マシンの上でさり気なく視線を逸らしてその人が笑う。

「もう体仕上がってるけど、良いの?撮影開始ジャストに合わせなくて」
「良いですよ。早めに作るに越したことはないんで」
「言うだけは・・・気楽で、良いね」

その声。こっちに一瞬だけ向けた視線。

「少し食べたほうがいいかも。かなり絞ったんじゃない?顎ラインがシャープだよ」
「出来る限り、やっておきたいんです」
「ミノ君、相変わらず完璧主義者だねー」
「違います」

はっきり否定しながら、突然。
本当に突然、カメラの向こうのその人はとんでもない目をした。

「約束を、破れないんです。絶対」

こんな風に斜めに見るのは、俺が俳優で演技者だからなのか。
俺は誰かとの約束シーンを撮る時、こんな目が出来るかって。

激しくて、でも穏やかで、強くて、でも途轍もなく優しい目。

これはイ・ミンホを演じてるヨンさんじゃない。
もしそうだとしたら、この人は俺なんかじゃ太刀打ちできない凄い役者だ。

「おお、意味深だね?」
何も知らないトレーナーが、からかうみたいに大きな声で笑う。
「何?もしかして」
「やだなあ、社長との約束ですよ。体絞れって。な?・・・ミノ」
「・・・ああ、うん。交わしたんだ。絶対破れない約束」
「判った!こんなに一生懸命やってくれるんだから、俺も協力する!じゃあ次、クロストレーナー行こうか」
「あれ、苦手なんだ。動かすだけでしょう」
「消費カロリー半端ないし、全身運動だから!ガマンガマン、さあ行くよー!」
「・・・はい」

そう言ってその人は諦めたみたいに、マシンから立ち上がった。

 

「本物ね。思った以上に」
社長が指先でスマホのビデオモードをオフにする。
「怪しいどころか切り返しも上手い。好感度も高いし、ひたむきだし。こんな風に言われれば応援したくなる。
ミンホ、あなたのイメージをそのまま踏襲してくれてる。顔や発声だけじゃないわ。言葉の感じまで」
「確かにね」

俺もあの場にいれば、本当にあんな風に話すだろう。それ以外に言葉が見つからない。
自分の目を疑うくらいそっくりだ。
それどころか自分自身がそこでトレーニングしてたような疑似感覚に襲われるくらい。

「これなら問題ない。これで正劇演技できれば完璧だわ。疑う人がいるはずなんてない」
「確かに。これで疑うなら、ミノ自身がやっても疑われますよ」
「俺・・・最低かも」

呟いた声にチーフマネと社長がびっくりしたみたいに目を見かわす。
「何よ、急に」
「ヨンさんがプロの俳優じゃなくて良かったって思ってる。プロのモデルじゃなくて良かったって」
「おい、ミノ」
「もしそうだったら俺、勝ち目ないかも」

あの人は言った。俺は唯一無二。自分はいらない。それでいい。
そもそもそこで負けてるんだ。俺にはそんな風に思えない。

入隊。ライバル。人気。この心の中にあるそんな汚い焦り。
誰にも言えない、打ち明けられない、影に隠した本当の俺。

横にいるウンスさんを見てるあの人の眼差し。少ない声。
なのにその目がどんな言葉より言ってる。愛してるって。

ウンスさんは明るく騒ぎながらその視線を受け止めてる。
そしてその目が彼に返してる。信じてる、愛してるって。

俺は。

俺は?

 

 

 

 

1 個のコメント

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    売れっ子になっちゃうと
    自由がないからね
    縛りばっかで…
    ヨンだって 縛りだらけよ。
    もっと自由にしたいはず
    救いは 愛しい人がそばに居る ってことかしら
    自分もあんな風にって 思っちゃうわよね
    幸せそうだもの。

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