「叔母上」
坤成殿、媽媽の御部屋前。
回廊の隅から掛けられた声に姿勢は正したまま、視線だけを流す。
佇むあ奴に頷いて、扉前を守る副長に
「代われ」
伝えると副長は頷き返し、私の立っていた空場所を護るようにそれぞれの兵が少しずつ配置巾を拡げた。
そのまま足早にヨンへと近づき、前を通り過ぎて人目を避けるよう回廊を奥へと進む。
「あの方はどうしてる」
ようやく耳目も届かない回廊の奥で足を止め、ヨンは息をつくと壁に凭れる。
娶って妻にし半年も経つというのに、口を開けば医仙の話ばかりか。
心配ならば宅に戻ってから本人に委細を聞き出せば良かろうに。
「まだ坤成殿で媽媽とお話し中だ」
「そうか」
「王様はいかがだった」
「親鞠の日取りを決めるようにと」
「徳興君か」
「ああ」
ヨンはそこまで言った後、気掛かりそうに言葉を続ける。
「間者をつけている」
「間者」
「そうだ。徳興君の間者になるよう見せ掛けて」
「二重間者か」
「遍照という僧だ」
「信用できる者なのか」
それ程厄介な策まで用いる甥に目を遣ると、奴は逡巡するよう腕組みをした。
「少なくとも今は。逆に余りに巧過ぎる」
「度肝を抜くほど美しい僧と、尚宮たちが色めき立っておった」
「ああ」
「お前の座も危ういな。唯でさえ婚儀の後だ」
「俺の」
自覚がないというのはこういう罪作りを起こす。
私が何を言わんとしているのか全く思い当たらぬよう、ヨンは此方に向かって首を捻った。
女ばかりの尚宮を率いるには、誰より女心を掴んでおかねばならん。
お蔭で己自身は女心などとんと縁遠いまま、その性や心根にだけは人一倍詳しくなってしまった。
女一人から始まる噂話が、皇宮全体の風評を牛耳る事がある。
そしてその噂話から思わぬ穴が開き、秘すべき情報が漏れる事がある。
逆にそれを操る事で、起きてもおらぬ偽りが起きたかのように伝わり、皇宮を、国の中心を揺らす事も出来る。
この男はいつまで経っても、愚直さ故に気付く事が無い。
在るべき事だけを在るがままに、真直ぐ捉えようとするからだ。
手を煩わされず無駄な時間を割きたくなくば、人心を掌握する。
その心を手に入れれば、人は自ずと従ってくる。
それに必要なのは他から抜きん出た力だ。
恐怖であれ見目であれ、圧倒的なものに人は惹きつけられる。
ただ戦の最前線で鬼剣を振り回しているだけでは務まらん。
だからこそあの時こ奴は、徳興君にまんまとしてやられたではないか。
己に直接手を伸ばすのではなく、己の最も大切にする医仙を搦め手で操られ、幾度も煮え湯を飲まされた筈だ。
結局この男は、己の痛みや苦しみなど忘れてしまう。
ただ医仙を傷つけられた恨や、命を危うくされた怒だけが燻っている。
それ故に徳興君を追い駆け、こうして捉え弑す日を待っている。
逃げ場のない牢獄へ閉じ込め、それでも安心できぬとばかり二重間者まで仕立て上げて。
「ヨンア」
「・・・何だ」
尚宮達がただ見目の良い男に浮かれ騒いでいると思ったら大間違いだ。
見目の整った男というなら、憮然とした顔で目の前で腕を組むこの甥を筆頭に、皇宮の中でもそれなりに居る。
特に王様の最近衛である迂達赤は優れた武技だけでなく、出自も見目も、高麗十営軍のなかで抜きん出ている。
ただしどいつもこいつもこの長に倣って、女心に疎いのが珠に疵。
女はそんな事では騒がん。
もしかしたらという、その微かな気配を敏く捉えそこに騒ぐのだ。
この男の周囲が良い例だ。兵達は皆従うというのに、女子は誰一人この男に従おうとしない。
どれ程見目が良くとも心の中に一人の女人しかおらぬと判る男なら、下らぬ望みはばさりと捨てる。
そして次に移って行くのだ。
淡い夢や期待が続く限り、女の心など容易に操れる。
己の無駄を割く事も、手を汚す事もせずに、心を操れば良いのだ。
奇轍が人々に与えたのは奇皇后という後盾と氷功による恐怖という力。
優れた出自が無かった代わりに、圧倒的な恐怖で人を抑えつけた。
そして徳興君が用いたのは、己の不遇から得た人の弱みに付け込む力。
王族だが追放された弱い立場から、人心を操る手練手管を弄した。
それらとはまた違うやり方でその美僧が人の心を操ろうとするならば。
己の魅力を最大限に用いる事で、人を魅入らせる事を知っているなら。
「厄介かもな」
その美僧が此方の側についているうちなら良い。
徳興君をもその美しさで絡め取り、必要な話を聞き出して此方の力になっているうちは問題もなかろう。
皇宮の尚宮らが騒ぎ立てる美貌の僧。人は誰しも側にいるなら醜いより美しい方が良いに決まっている。
そして人の心とは弱いもの。
美しい者が己だけを見、親身に世話を焼き、傍らで延々と己の話に耳を傾けていれば、心など簡単に揺れる。
ましてやもう出る望みの無い獄に繋がれ、暇を持て余す自己顕示欲の強い徳興君。
大言壮語であれ、何かしら口を滑らせる可能性は高い。
そこまで考えて美僧を二重間者に仕立てたとすれば褒めてやるが、こ奴にそこまで智慧が回ったとは考え難い。
己の美醜を気にもせず顧みぬこ奴が、敢えて美しさからその僧を選んだとは思い難い。
ならば私がこの目で確かめておくに越した事は無い。
直接その僧に会う事は難しいだろうか。何か良い口実は無いのか。
ヨンの凭れる壁に自身も続いて並んで凭れ、どうにか名分を探す。

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遍照 叔母様まだ見てなかったのね
そうですね チェックしてもらわないと…
中まで 見通せるかしら?
不気味な存在だものね
叔母様の目も光らせてもらわないとね
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遍照!
この不吉な人物が登場してから
叔母様とキム侍医の名前を見ただけで、何故か心が落ち着きます。
叔母様ならきっとあの遍照を
しっかりと見極めてくださると
信じています(^^)