「トギ」
俺の声に診察棟からこの方の部屋への短い渡り廊下を駆けて来たトギが、引き攣った顔でどうにか頷く。
「皆無事か」
俺の声に頷きつつトギが包んで抱いたこの方を不安げに指す。
「大丈夫だ。俺の衣は」
尋ねた俺に廊下の向こうを指し、トギは一度此方を振り向くと小走りで廊下を進む。
その間にも空気を裂くような雷音は繰り返し典医寺を揺らす。
「衣をくれ」
「は、はい大護軍様!」
扉を入るなり伝える俺に、典医寺の下働きが慌てた様子で畳んだ衣を差し出す。
「イムジャ」
「うん、降りる」
胸に納まる小さな体に声を掛けると首に絡んだ腕は解け、危うい足取りでこの方が腕の中から床へ降りる。
渡された衣を身に着け袷紐を確りと結び、まだ蒼褪めて強張る頬へ静かにこの掌を当てる。
「皆と診察部屋へ」
「・・・分かった」
頷くとこの方は部屋の下働きたちを手招き、そしてトギの手を握る。
そのまま廊下を足早に駆け、診察部屋へと飛び込む。
室内のキム侍医が俺達に振り向き、腰掛けた椅子から立ち上がる。
「酷い天気ですね」
「全員を集めろ。窓から離れて部屋の中央に固まれ」
「はい」
キム侍医が頷き、至近で響く雷音に窓外を眺める。
「これ程激しい春雷は久々です」
「皆を頼む」
「チェ・ヨン殿は」
「康安殿へ行く」
「判りました」
「怪我人が運ばれるかもしれん」
「此方に準備は整えております。ご心配なく」
キム侍医の示す机の上には、確かに治療の道具が整然と並ぶ。
この雷の中、此処で一人道具を揃えていたなら肝の座った男だ。
奴に頷き返すと最後に僅かに膝を折り、この方の瞳を見る。
「イムジャ」
「分かってる、大人しく待ってる。気を付けてね」
その声を合図にようやく乾いた衣の裾を翻し、俺は診察部屋の扉から耳を劈く雷音と土砂降りの雨の中へ飛び出した。
*****
典医寺から駆ける道々、土砂降りの雨を透かし周囲の景色を確かめる。
闇空の中に迸る雷光が、周囲を不気味な明るさで照らす。
雨の中にきな臭さはない。火さえ出ねば後は運に任せる。
敵は雷だ。落ちるなと言って聞き届ける相手ではない。
「大護軍!」
康安殿へ向かう外回廊で駆け寄るテマンに、雷音に負けぬよう声を張る。
「禁軍に走れ。各衛の守備殿内に被害があればすぐに報せろと」
「はい!」
「アン・ジェと官軍の長を康安殿へ呼べ」
「わかりました!」
入れ違いに雨の中へ飛び出すテマンはさすがに慣れている。
落雷を避ける為、高い木々からなるべく離れ獣のように駆けて行く。
「大護軍!」
「問題は」
康安殿内の回廊、左右に並ぶ迂達赤の間を駆けるように進みつつ声を飛ばすと、兵らは前を抜ける俺へそれぞれの頭を下げる。
「康安殿は無事です。坤成殿からも特に連絡は」
「トクマニ」
「はい大護軍!」
「王妃媽媽をお迎えに向かえ。御二方同じ場所に居て頂く」
「はい!」
護りの場所を抜け回廊を坤成殿へと駆け出したトクマンの足音を背に、康安殿の最奥、王様の御部屋前で足を止める。
「王様」
「入りなさい」
名乗る前から内官の手で引かれる扉内。
左右を内官長とチュンソクに守られた王様が、階の上から足早に降りていらっしゃる。
「御無事ですか」
「ああ」
「王妃媽媽をお呼び致します」
「そうだな。お一人では心細かろう。皇宮内の被害は」
「典医寺から康安殿までは特には」
「落雷のみか」
「は」
皇庭の木の二、三本で済むなら、幸いとすべきだろう。
殿の大きさから言えば護りやすいのは坤成殿。
しかし坤成殿は窓のすぐ外に、王妃媽媽のお好みで幾本か高い木が植わっている。
そして厄介なのは殿で取り囲んだ中庭。
その中央の高い木に落雷でもあれば、一気に逃げ道が閉ざされる。
そう判じ王妃媽媽の御所替えを計じたが、吉と出るか凶と出るか。
「医仙はどうされている」
「典医寺にて医官たちと共に」
「連れて来ずとも良いのか」
「は」
今恐らく皇宮の真上にある雷雲。この雲の早さだ。抜けるまでにそう時間はかからん。
こうして王様の前に控えている間にも、御声を遮るような雷鳴が幾度も響いている。
康安殿の窓がその烈しい音で、外れて落ちそうな程に震える。
「天任せだな」
揺れる窓へと目を遣って、王様は低く呟かれる。
「危険ゆえ御部屋の中央でお待ち下さい。隊長」
「はい大護軍」
「王妃媽媽がいらしたら、王様と共にお待ち頂け」
「大護軍は」
「護軍と官軍の長に被害を確かめる」
「は」
「万一の折は西へ下れ」
「は!」
チュンソクの返答を聞き、最後に王様へと頭を下げると御前を辞す。
「チェ・ヨン」
扉前、回廊を駆けて来たアン・ジェの声に息を吐き、此方へ頭を下げる官軍の長に顎で頷く。
「被害は」
「城下の官軍兵からは特に報告はありません」
城下に皇宮以上の高い建物や目立つ木々はない。
姿勢を正し言った官軍の長に続いて、アン・ジェが首を振る。
「巡衛府のすぐ近くに落雷だ。杉が折れた」
「怪我人は」
「今調べている」
「火は」
「出ていないと報告を受けたが」
「詳細が分かったら報せろ。他には」
「今の処、何処かの殿舎に被害が出たとは聞いておらんが」
「皇庭の倒木は」
「今見回っている。何本かは折れたろうな」
「官軍と手分けしろ」
その声にアン・ジェと官軍の長が同時に頷いた。
「ああ、分かった。お前はこれからどうする」
「仁徳殿へ向かう」
俺の短い返答にアン・ジェの眉根が寄る。
「警邏に抜かりはない。今宵の歩哨からも衛兵からも問題はないと連絡が来ているぞ」
「念の為だ」
「この天気だ。無理はするなよ」
「王様へ報告に行け。チュンソクも居る」
「分かった。後でな」
アン・ジェたちと別れ回廊を走り出す背にテマンが付く。
肩越しに眸で振り向き
「テマナ」
少しでも大きく口を開けば、吹きつける雨水を飲む。
低く呼ぶこの声を雷音の中にも逃さずに、テマンが声を返す。
「はい!」
「典医寺へ向かえ」
「はい!」
いつもは四方へ暴れる髪が雨で目許に張り付いている。
それを大きく頷かせ、テマンがこの背から逸れて行った。

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そうだった ヨンの前を隠してるの
ウンスだった! 華奢なひとは 羨ましい。
ウンスの 側に居てやりたいでしょうに
あれこれ 忙しい ホントに忙しい。