「・・・ソンジン」
ソヨンの声に顔を上げる。 そろそろだろうと目星はついた。
恐らく観察使からの連絡だろう。
「何だ」
いつもであれば返答も聞かず無遠慮に開かれる部屋の扉は、今日に限って開かれることはない。
微かに眉を顰め、もう一度声を掛ける。
「何だ」
「・・・入っても良い?」
「ああ」
何なんだ、今日に限って。嫌な報せでも届いたか。
ソヨンは扉を開け入り口に佇んだまま、部屋に踏み込む事も無い。
「どうした」
顔を上げた俺を見る事も無く、ただ手の中に握った文を其処から此方へと腕を伸ばして差し出す。
俺に立って来いという事か。
腰を上げ入口へ進み、ソヨンの手に握られた文を受け取る。
文に目を通し、合点が行ったことが二つ。
一つは、何れ必ず観察使に代償を払わされる事。
あの男がわざわざ俺を遠縁にまで仕立て上げる以上、その代償は必ず支払わされる。
新しい晴れ空、新しい天を手に入れる為に。
そしてもう一つは、ソヨンのこの浮かぬ顔の訳。
俺とソヨンは都へ上がれば、互いに声を交わす事も出来ぬらしい。
共に宮中へ上がれば安全だろうと言った観察使の言葉の意味は一体何だったのだ。
最後にこうして一文添えるなら。
「どうする」
問い掛けにソヨンが目を上げる。
「何が?」
「此処に居れば計略に乗る必要もない。今迄通り」
俺は天門が開くのを待ち、開けばくぐる。ソヨンとて、今迄通り。
今迄通り。
男に呼び出され着飾って出掛け、悋気に狂った間抜けに辻斬りの真似事をされるのか。
医女でありながら治療にも呼ばれず、学びたくとも学べず。
先生に付いたウンスのように、医の腕を磨く事も許されず。
「今まで通り、ね」
ソヨンは皮肉気に呟くと鼻で哂い、その首を振った。
「ソヨン」
「私が行こうが行くまいが、あんたは行ってよソンジン。一人でも構わないって、大丈夫だって言ってたじゃない。
観察使が根回しして手を尽くしたんだから、無碍にしないで。
宮中で武官になって、奉恩寺に出入りできるようになって、ウンスの手掛かりを見つけて、彼女のところに行きなさい」
「俺が去れば、誰がお前を」
「あんたが来る前だってどうにかなった。これからもきっとどうにかなると思うから大丈夫。もう私の事は心配しないで」
「・・・そうか」
「そうよ」
女であることに、そして周囲からの女としての扱いに抗わぬソヨンの態度が、どうしても受け入れられぬ。
たとえ俺ではなくとも唯一人の男のみを追い掛け、涙を零しつつも泣いていないと意地を張りった女。
近寄る俺を怒鳴りつけ蹴り飛ばし、噛み付いて、それでも先生と俺を信じ命まで懸けて鍼を刺した女。
最後まで心のままを貫き、扉を超えて去って行った、ウンスの鮮やかな姿だけがこの心を捉えている。
ようやく帰れるかもしれぬ。
宮中へと入り込み、奉恩寺の祠堂へ辿り着けば、そしてその祠堂が光れば、全てが分かる。
「出て来る」
それだけを残し、俺はソヨンの脇を抜ける。
*****
「あれ兄さん、久しぶりだね」
酒屋の前、女主人に声を掛けられる。今日は驚くこともない。この主人に会う目的で来たのだ。
その声に頷きながら、柴垣の向こうの簡素な客席を覗き込む。
それ程に混んではいない。商いの邪魔をする事もなさそうだ。
思った通り、女主人は相好を崩しながら俺を手招いた。
「素通りする気じゃないだろうね、入ってお行きよ」
その声に小さく頷き、俺は垣の中へ進む。
「で、何を訊きたいんだい?」
女主人は至極当然のように此方を見た。
「ソヨンの事かい」
「ああ」
頷く俺に笑みを浮かべると、女主人は重ねて問うた。
「あの子の事が、気になるのかい」
「そうではない」
探りつつ気にならないという言葉程、可笑しなものも無い。女主人もこの返答に噴き出した。
「気にならないのに、訊きに来たのかい」
「ソヨンは、俺が来るまでどうしていた」
「どうしてたって?」
「男の呼び出しを受けて、どうしていた」
「ああ」
合点のいった女主人は、眉を顰め苦く笑った。
「気の強い子だからね。しょっちゅう手荒く扱われてたよ。
泣き言なんぞ言いやしないけどさ。話は耳に入るもんだよ。
特にこんな、酒屋なんてしてるとさ。
男に閨に誘われて、断っちゃ顔を腫らして帰って来てねえ。
悔しかっただろうね。あの頃のあの子の口癖は」
女主人は、ソヨンの声を空真似して見せる。
「話し相手ならいくらでもなる。楽になるならいくらでも聞く。
でも閨で聞くのは真平だ。酒を挟んで服を着たままなら聞く」
そして俺に目を戻すと首を左右に振った。
「そんな事、両班の男が求めるもんかい。あいつらが欲しいのはまさしく夜の閨の相手なんだから。
それも名目は診察さ、両班にとって一番大事なのは面子なんだ。
診察だって言っちゃあ大枚叩いて、あの子を宴席に呼んでた。
あれだけの美人だからね。男も呼ぶには、そりゃあ金も使う。
それで家人の男が付いて出て、適当なところで口実を作っちゃあソヨンを連れ帰ってたけどね。
それを繰り返せばその男も睨まれる。それであそこはなかなか男の下働きが居つかないのさ」
夏の白い光の中で聞くには、やけに生臭い話だ。
「両班とはそれ程に力のあるものなのか」
「・・・兄さん、あんたも面白い事を言うね」
女主人は、驚いたように目を丸くした。
「両班、中人、常人、賎人。これが天下の分け方だろ。どんだけ山奥から出て来たんだい。
こんな色男がそんな田舎にいるとは、到底思えないけどねえ」
俺の顔を覗き込む女主人の視線を避け、顔を背けながら
「俺が居なくなれば、では」
「まあ陸王が居る限り、いつまでも逃げ回る事も難しいだろうさ。陸王に召されるか、両班に召され続けるか。
どっちかだろうね。今んとこあんた以上にあの子の我儘に付き合える男もいない。断るにしたって限りがある」
女主人は息を吐きながら、独り言のよう呟いた。
「どっちにしたって碌なもんじゃないさ。あの子だけが残って一人で意地になっても、男の力にゃ敵わないんだ。
酒宴の席から、続きの閨に引っ張り込まれりゃ終わりだよ。
今迄だって断り切れなかった事も無理にって事もあったろうね。詳しくは聞かないよ。女にゃ残酷な問い掛けだ」
「・・・そうか」
「で、何だい。これを訊いて腰を落ち着ける気になったかい」
腰を落ち着ける。此処に、ソヨンと共に残って。俺は静かに首を振る。
「いや」
「そうかい」
両班がそれ程力を持つのなら、今の俺ではまだ力が足りん。
「あいつと共に、都へ行く」
「何だってえ?」
素頓狂な女主人の声に俺は頷いて腰を上げる。
代償を支払う破目になるだろう。あの観察使の口利きの代償を。
俺が遠縁だと嘘を吐いてまで宮中へ潜り込ませようとしている、それには大きな理由がある筈だ。
観察使が新しい晴れ空、新しい天を得る為に。
それでも今の俺では戦うには弱い。名目が必要だ。
代償を支払うと分かっておろうと、あの口車に今は乗る。
口を利かずとも、目を合わせずとも。
此処に居るより都へ共に上がった方がまだ良い。
少なくとも宮中でソヨンを手篭にする愚か者はおらぬだろう。
宮中の兵として、名目を得て動く方がまだ良い。
観察使は言った。共に上がればソヨンも安心だろう。
つまりは共に上がれと言う事だ。それでいて知り合いと露呈するなと釘を刺す。
俺もあいつも都に居るべきだ。その上で知らぬ同士の振りを。
観察使は言った。何かあれば頼みを聞いてほしい。
つまり俺とあいつはこの後、共に代償を支払う事になる。
逆に支払うまでは観察使の助力を望めるという事だろう。
お前の闘い方は間違っている、ソヨン。
周囲の扱いに流されながら、その中で意地を張るからだ。
流されるなら、流れのままに行けば良い。意地を張るならば流されず、最初から張るべきだ。
お前のやり方を俺は好かん。しかし救われた恩はある。
だから帰る前に最後にお前を自由にしてやる。観察使に何れ代償を払ってでも。
宮中でどれ程の力を得られるかは分からん。
それでも動かぬよりましだ。
此処で立ち止まる訳にはいかぬ。
俺は音もなく、腰掛けていた飲み屋の椅子を立つ。
女主人に小さく顎で頷き、踵を返す。
力を持つ両班。その力で屈服させられるソヨン。
民を支配する者と、支配される者に分かれた朝鮮。
その頂点に君臨する暴君。
今の俺では支配者に噛み付くにはまだ弱すぎる。
確実に噛み付くためには牙を研ぐ時間が必要だ。
俺が去った後ソヨンが元の暮らしに戻っては意味がない。
力になるのは観察使。あの男の目的は、新しい晴れ空。
今はその口車に乗ってやろう。
頭に浮かぶこの纏まらぬ断片が、大きな絵を描き始めるまで。

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さらんさん、もうFainalなんですね・・・。
本当に楽しませていただいてます。ありがとうございます。
ソンジンとソヨンの幸せのカタチ。二人一緒なのか別々なのか・・・。
ヨンとウンスと同じではないかもしれないけれど、必ず何処かにあるはずですよね。
ソンジンは気づいてないと思うけど、ウンス、ウンスと言いながら、実はソヨンが、彼の「今」を生きる意味になってるんじゃないのかな・・・と。今、護るべき女人はソヨンだと。気にしてないのに探っている、自分でもおかしいと感じてる。
ヨンがウンスに感じていた違和感のようなものに、似ているのかな?なんて思いながら読ませていただいています。勝手な解釈でごめんなさい。
とにかく二人、幸せに。どうか幸せにしてあげてください、さらんさん。
続き、楽しみにしています。