行水【後篇】| 2015 summer request・行水

 

 

「ヨンさん」
門へ走り寄る俺に、コムの声が掛かる。
「お帰りなさい」
「ああ」
「ウンス様は、さっきテマンさんと一緒に」
「そうか」
「はい」
そう言って頷くコムに
「チュホンは」
と尋ねると、困ったように太い眉を下げて笑み返し、
「機嫌を損ねて、今日は俺は近寄らせてもらえず。テマンさんが行って、ようやく少し機嫌が直ったようです」

困ったような声に苦笑して頷き、俺は井戸へと真直ぐに歩く。
「どうしました」
「まず行水だ」
「用意しましょう」
「いや、良い」
制した俺の声に笑んで頷くとコムは頭を下げ、門へ戻って行った。

「ヨンア、お帰り!」
庭を横切る己に縁側の奥、居間の中から先に明るい声が掛かる。
次に縁側へ駆け出て来た、今日の夏の陽程に眩しい笑顔。
俺はその光に目を細め、歩を止めて軽く頭を下げる。
「戻りました」
「どうしたの?何で庭から」

そのまま縁側を超え沓を引掛け、此方へと駆けようとするその姿に慌てて声を掛ける。
「行水を。終われば戻ります」
「じゃあ、背中流してあげようか?」
「いえ」

伝えたにも拘らず、そのまま縁側に腰を下ろしたこの方に首を傾げる。
「ですから」
「うん」
「行水をしますから」
「うん」
「タウンと、宅の中に」

この方が其処にいらしたのでは、この上衣さえ肌蹴られぬ。
「うん、どうぞ?」
「どうぞでは」
「だって、手伝いたいのに断るんだもの」
「は」
「あなたが井戸からお水を汲んで、盥をいっぱいにして行水する。1人でやるならただ見てるだけね。2人でやれば早いのになあ」

この方は縁側に座り込んだまま、此方を軽く睨んでそう言った。
まるで今朝のチュホンのようだ。我儘さではどちらも負けん。

「あ~あ、時間がたってっちゃう。2人で晩ご飯、食べられるかなあ。チュホンも待ってるんじゃないのかなあ」
「・・・お願いします」
この方の粘り腰に根負けして息を吐き、俺は小さく言った。
「石鹸と手拭い持って来る!」
途端に笑顔の戻ったこの方が腰を上げ、廊下を駆けて行く。
俺は半ば自棄な気分で、着ていた藍の衣の腰帯を解いた。

釣瓶で汲み上げた井戸水で大盥が満たされる頃、聞き慣れた足音にふと手を止める。
小さな手に石鹸を握り細い腕に手拭いを掛け、薄橙を帯びた逆光の中を、此方へ駆け寄る細い影。
「持って来たわよ!」
そう言って俺に石鹸を手渡すと手拭いを井戸端へ掛け、この方が履いているパジを遠慮なく膝までたくし上げて行く。
「イムジャ」

俺だけならばまだしも、コムも、厩にはテマンも居る。
思わず上げた鋭い声に、この方は全く平然と大きく笑んだ。
「ねえ、家族しかいないのよ?どうしてそう気にするかなあ」

確かにおっしゃる通りなのだ。テマンは勿論、コムもそうだ。
それでも湧く腹立たしさにも、もしも見られればという悋気にも、たいがい慣れて行かねばならん。
この困った我儘な方と一生を共にする。この風変わりなやり方に慣れねば、此方の身も持たん。

けれど、と肚で呟く。我慢し譲歩するのも此処までだ。
タウンという伴侶を持つコム。そして弟分のテマン。
奴らだけだ。それ以外には絶対に許さん。

第一この方がパジを上げようと屈んだ途端、門前に立つコムの方が慌てて背を向けている。
家族同然といえど、それが礼儀だ。この方の振舞いが天衣無縫すぎる。

俺の無言を了承と受け取られたか、この方は俺の握った釣瓶を奪い
「さ、じゃあどうぞ!」
そう言って、大盥を示した。

俺はすっかり自棄になり、上半身を肌蹴たままでざぶりと盥の中へ足を突込み胡坐をかいた。
僅かでも肌を隠したい一心で石鹸を肌へと擦りつけると
「ヨンア、はい」
盥の脇にしゃがんだままのこの方が手拭いを渡す。
「ありがとうございます」

愛しい方のその顔すら、振り返る余裕はない。
何しろ此方は脚どころではない。腰近くまですべて晒している。
一刻も早く洗い終え、流し終え、何でも良いから肌に纏いたい。
そうでなければ心許なさでどうしようもない。

「ちょっとヨンア、水そんな跳ねかさないで!」
この方が笑いながらこの手を押さえようと細い指を伸ばす気配に、驚いて己の手を退く。
「ど、どうしたの」
「・・・いえ」

この方の目の前に己だけ肌を晒したままなど、我慢できん。
「・・・・・・」
無言のこの方の視線の当たる場所が、まるで灼けるよう熱い。
医者としてこの体をご覧になっているだけかもしれないが、診られる此方は堪ったものではない。

頸。咽喉。肩。腕。背。胸。そして、脇腹。

この方の前で肌を晒した己の軽率さに、今更舌打ちが出る。
この方が見ている、俺の脇腹を。
あの時の、あの傷を。
「・・・イムジャ」

その細い指がもう一度伸ばされる。此度は逃げ場すらない。
避けようも無いまま、残った傷跡がその指先で触れられる。
「ごめんね」
「ウンスヤ」
「何度でも言う。本当に、ごめんなさい」
「気にしません」
「それでも」

震える指で傷を辿るこの方へ、髪からも躰からも水を滴らせ、ようやく真直ぐ振り返る。
「だから今、共に居られる。それでは駄目ですか」

何も答えず、泣き笑いを浮かべるこの方へ目許を緩め、
「流します」
そう言うと、この方は立ち上がり
「その前に、背中流してあげる!」
明るい声と共に、握っていた手拭いが奪われる。
「先の世界ではしょっちゅうハンジュンマッであかすりしてもらったから、きっと上手なはずよ!任せてー」

背に当てられた手拭い。細い指先の爪が背筋を掠める。
その感触に肌が粟立つのを抑える事は出来ない。
「・・・え?」

それはそうだ。これ程直に触れられたのは初めてだ。
おまけに此方は上半身を晒し、何一つ身に纏わずに。
「ヨンア」
この方の声が、笑うのを堪えるように震える。
「もしかして、すっごく緊張してない?」
「・・・いえ」
「ふうん?」

次の瞬間、思わず叫びそうになり奥歯を噛む。
背筋を腰から撫で上げる、小さな爪の感触に。
触れられるのが、撫でられるのが初めてなわけではない。
それでも此方だけが素裸で。
まして今まで直に触れた事も触れられた事も無い、誰より愛しい俺のこの方の指先で。

「・・・イムジャ」
低い声でそう呟く。腹が立つのも仕方なかろう。
「なあに?」
「悪戯は」
「だって、ヨンア」
くくく、と嬉しそうな、小さな声が上がる。
「触ると、鳥肌が立つんだもの」

ああ、今この方の言った意味がようやく身に染みた。
私、手が掛かるわよ。
本当だ。今まで知ってはいたが、いや知っているつもりだったが。
庭で裸の背を撫でる程手が掛かる方だとは、夢にも思わなかった。

「もう結構」
諦めて息を吐き、この方へと手を伸ばす。
「手拭いを」
「分かった、もうイタズラしないから」
「信じません」
「意地悪ねー、しないって言ったでしょ」

この方は笑ってそう言いながら、この腕が届かぬように手拭いをその背に隠したままで大きく身を避け、盥から離れて立ち上がる。
奪い取ろうと盥の中で立ち上がり、そのまま慌てて再び座り込む。
そして胡坐座のまま、盥の中で肩を落とす。
濡れた白い下衣は素肌に張り付き、まるで何も付けていないほど透ける。
これで立ち上がりこの方を追いかけるなど無理だ。

背を向ける俺に、ようやく笑いの収まったこの方の細い指先が伸びる。
俺は無言のまま首を垂れ、盥の中の水面を見つめる。

夏をそのまま写し取ったように光る水。
背に感じる、この方の動かす手拭い。
此度は悪戯もせず、きちんと手拭いで擦っている。

顔を上げ、空を見る。
熱いままの陽射し。薄く刷いたような雲。
本当に秋など来るのかと思うような、盛りの蝉時雨。

こうして盛夏を過ごす。この方と共に。
いつまでも終わらない気がする。
まるで今の陽射しのように。蝉時雨のように。

いや、と片頬で笑む。
終わってもらわねば困る。この先の秋には待っている。
白絹の衣を纏うこの方と、永遠に共に居ると誓う日が。

そうなればもう我儘は聞かん。
裸のこの背を悪戯に撫でようものなら、此方も確りと返礼はさせて頂く。
「きれいに洗った!」

その嬉し気な声に頷いて、この方を振り返る。
背を擦り散々跳ね飛ばした石鹸の泡が、白い頬にまでついている。
この手を伸ばし、掌で頬を押さえ、親指でその泡を拭う。
「流したら、チュホンの様子を見て参ります」
「一緒に行く!行っていい?」

頬を撫でられたままそう尋ねる声に頷きながら、俺は笑う。
一人目の我儘を聞き終えたと思えば、次が待っている。
我が家の二人は、本当に手が掛かる。

この方が釣瓶で汲み上げた水を浴び、頭を振って飛沫を飛ばす。
ようやく少し傾いて来た西陽を受けて、飛び散る水滴が輝いた。

 

 

【 行水 | 2015 summer request ~ Fin ~ 】

 

 

 

 

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