あいつらは馬鹿か。大声で。
「馬鹿じゃない。と、思う」
珍しく自信なさげに言うこいつに、あたしは噴き出した。
「ただ、みんな大好きなんだ。大護軍と医仙が」
そうだね。あたしも大好きだよ。
最初にチャン先生が連れて来た時は、なんて嫌な女と思ったけど。
「そうなのか」
びっくりしたテマンの目に頷きながら、あたしは続けた。
そうだよ。飯が不味いだの水は何処だの、ぎゃあぎゃあうるさくて。
「そうだったのか」
うん。ウンスの事知らなかったから。
あんな一生懸命であんな真っ直ぐなひとだなんて、全然知らなかったから。
その声に頷いて、こいつは少し懐かしそうに言った。
「俺も最初、大嫌いだった。殺してやろうと思った」
え。
「・・・そう思った。医仙が、隊長を刺した時」
テマンは思い出しても申し訳ないのか、眉を曇らせて言った。
ああ、そうだったね。あの後、大変だったね。
「うん。ほんとに殺してやるって思ったんだ」
仕方ないよ。ウンスの事知らなかった。大護軍のこと誰より大事なあんただから、そう思ったって仕方ない。
「でもさ、そうしなくて良かったよ」
こいつは木漏れ日の中で眩しそうに眼を細めて、縁側に座っている大護軍とウンスをじっと見た。
「今じゃあ俺の姉さんみたいな、母さんみたいな人だ」
その視線を追って、あたしもウンスと大護軍を見た。
そうだね、あたしにとってもほんとにそうだ。
姉さんみたいな、母さんみたいな。
悲しいことがあると走ってって、その胸に頼りたくなる。
嬉しいことがあると走ってって、真っ先に伝えたくなる。
「うん、俺もそうだ」
そうなんだ、同じだね。
「だけど医仙は頑張り屋だから、頼り過ぎると抱えそうで」
だからあたしたちがいるんだよ。
「え」
ウンスが困った時に、ちょっとでも聞けるように。
ちょっとでも分けてもらえるように、あたしたちがいるんだ。
「そうか」
うん。ウンスはきっと、大護軍には言えない事もあるよ。
大好きだから、心配かけないように、困らせないように。
前からそうだった。黙ってどんどん突っ走る。悪い癖だ。
あの頃はチャン先生がそれを聞いてた。
今はキム先生がいるけど、きっとウンスもまだそこまでは、キム先生に言えないはずだ。
だからあたしはウンスとキム先生の橋渡しもしたい。
二人がもっと心を開き合えるように、本音で話せるように。
あたしは庭の端っこ、薬員たちに囲まれて笑うキム先生を見る。
黙って先生を見てると、こいつが心配そうにあたしを覗き込む。
「どうした」
ううん、何でもないよ。
「急に黙って、御医を見てるから」
あたしだって、考え事する時はあるよ。
「そうだな、そうだよな。でも」
そう言ってこいつは急に、あたしの指先に触れた。
あたしは驚いて、その顔をじっと見上げた。
「どうすればいいかな」
こいつはあたしが見てる事なんて気にしてないのか、首を傾げて握ったあたしの指をじいっと見つめてる。
難しい顔で眉根を寄せて、しばらく考えた後、急にその顔がぱあっと明るくなった。
「そうだ、何か考えてる時は、俺の手を握れ」
あたしは慌てて握られた手を振りほどく。
なに馬鹿な事を言ってる。何で考え事してるのに、あんたの手を。
「声が聞こえないと、心配だから。握ってればなんか考えてるって、だから黙ってるって、すぐわかるだろ」
あんた、おかしいよ。あたしが何を考えようと考えまいと、なんであんたがそんな事心配するの。
「そりゃするさ。知りたいだろ、何考えてるか」
どうして。そんな事、知らなくて良い。
「トギは知りたくないか。心配じゃないか」
真っ直ぐな目に、真剣な問い掛けに、胸のどこかがぎゅっとつねられたみたいに痛くなる。
わからない。わからないけど、心配だ。
あんたが黙って無茶する事、あの大護軍の背中を追って、大護軍みたいにどんどん走ってくのは、心配だ。
大護軍にはウンスがいる。だから何があってもウンスが護る。
でもあたしは、あんたの側であんたを守る事が出来ないから。
友達じゃあんたを怒る資格があるのかわからない、だから。
「ほら、そうやって黙るから心配なんだ」
こいつがそう言って、あたしを睨む。
「だから教えろって言ったんだ」
だって、わかんないんだよ!!
最後に指で言って、木の下にあいつを置いて、あたしは走り出した。
*****
「大護軍、一杯」
チュンソクが縁側の俺達に寄り、俺へ盃を渡す。
握ったこの手の盃を酒で満たすと、奴の目が微笑んだ。
そうして笑っていられるのもいつまでか。
「覚悟は良いか」
俺の一言に、奴の顔色が途端に変わる。
「飲み比べは勘弁です」
そんな俺達の言葉に噴き出すと
「じゃあ、私もみんなと話して来よっと」
そう言って縁側から腰を上げるこの方に俺は頷いた。
「2人とも飲み過ぎないでね」
俺とチュンソクに向かい笑って手を振り、この方の亜麻色の髪が夏の陽の下、ふわりと庭の喧騒に紛れて行く。
「お邪魔してすみません」
その背を見送りすっかり見えなくなった後、チュンソクはこの眸を見て静かに言った。
「下らんことを」
「チェ尚宮殿が、イ・ジャチュンとイ・ソンゲの事を」
「・・・ああ」
「様子を見ます。ヒド殿も共に」
「そうか」
「大護軍」
「おう」
「イ・ソンゲと大護軍には、何か」
「・・・どういう意味だ」
「確信はありません。それでも側に十二年。それに自信はあります」
「まあな」
あの方の前では一切曖にも出さず、こうして二人きりになって初めてその名を口にしたこの男。
何かしら勘付いている。この肚を読む目は、誰にでも備わるものではない。
「先日の双城総管府攻め。手傷を負ったイ・ソンゲを庭で見た時の医仙のご様子が、ずっと気に掛かっています」
一息に告げたチュンソクに、俺は首を振る。
「チュンソク」
「は」
「案ずるな」
「しかし」
「頭を使うのはお前の役だがな」
俺は縁側の盃を取り上げるとチュンソクへ渡し、奴が反射的に握ったところで其処へ酒をなみなみと注いでやる。
「飲め」
「いや、大護軍」
「俺の酒が受けられんか」
「そういうわけでは」
「じゃあ飲めよ」
そう言って盃を無理矢理に合わせ、俺は一息に中身を流し込む。
チュンソクは明らかに、しくじった、そんな正直な顔をした後で、覚悟を決めるように目を閉じて一息深く吐き、次にその盃の底を天へ向けるように一息に呷った。
「飲め」
「いや、大護軍、自分はもう」
黙ったまま、空になった其処へ酒を注ぐ。
「まあ飲め」
「いや、大護軍、本当にもう」
「チュンソク」
「は」
俺が真顔で奴を見ると奴は渋々杯を空け、赤くなり始めた目許でどうにか此方へ焦点を合わせようとする。
十二年か。そんなに経つのか。寝床を求めて迂達赤へと乗り込んで。
こいつらと出逢い、共に戦場に立ち、一日も早くと数えていた頃はあれ程永かったものを。
「なあ、チュンソク」
「はい、大護軍」
「・・・いや」
苦く笑って首を振る。よくこんな男に従いて来たものだ。
そんな馬鹿な物好き、お前らくらいしかおらん。今までも、そしてこれからも。
「どうしました」
「・・・飲め」
ふと目を上げると人垣の向こう、武閣氏たちに囲まれたあの方がご自分の盃を頭の上に上げ、大きく首を振っている。
飲ませすぎるなとでもおっしゃりたいか。俺は笑って頷き、自分の盃だけを手酌で満たした。
*****
「テーマナ?」
ちょっとばかり酔った、千鳥足みたいなふらふらした声に、びっくりして茂った青い葉影から下を透かし見る。
「医仙」
木の下の姿と長い髪に、慌てて幹を伝って降りる。
「どうしたの?トギは?」
幼い子みたいな目が、まっすぐ俺を見る。
「さっきまで一緒にいたのに」
そう言うと医仙はそのまま俺が滑り降りた木の幹に背中をつけて、ずるずる伝って、木の下の草に腰を下ろしてしまった。
「う、医仙。だいじょうぶですか」
「私は全然、だいじょぶよ?それより」
座り込んだ医仙は地面から俺を見上げる。
「テマナは、だいじょぶなの?」
だいじょうぶなの、その声に俺は曖昧に首を傾げる。
何かあると頼りたくなる。あいつはさっきそう言った。
だけど俺は男だから、医仙に頼ってばかりじゃいられない。
俺の命より大切な大護軍が、その命より大切にする人だから。
俺の姉さんみたいな、母さんみたいな人だから、俺だって守りたい。
「ケンカしたんだ。当たり?」
医仙の酔っぱらったみたいな声に俺は首を振る。
「俺が、ちゃんと言えなくて」
ただ黙ったら伝わらないから。聞こえなくても、話さなくてもここにいるって。
声を待ってるって、わかってほしかったから。
なのにあの目が、俺じゃなくキム御医を見てるから。
背中を向けたらあの声が聞こえないから、焦っただけなんだ。
「ねえ、テマナ。脅かすわけじゃないけど」
医仙はそう言って、心配そうに俺を見上げる。
「トギは私か、キム先生か、テマナじゃないと話せないわよ?
他の人じゃ、あの声をなかなか分かってあげられないでしょ?
1人にしてて、本当にだいじょうぶ?」
そうだ。あの声は俺か医仙か、キム御医でないと聞こえない。
慌ててぐるりと周りを見ても、あの黒い髪は見当たらない。
「お、俺行きます。医仙はだいじょうぶですか」
「え?」
医仙は首を傾げた後、いきなり地面からしゃきっと立ち上がった。
「全然問題ないから、早く行ってあげて?」
その声に頷くと、俺は医仙を残して駆け出した。
「やだ、ほんとあの人とそっくり」
医仙が後ろでそう言って笑ってるなんて、全然気づかずに。
*****
「トギヤ!!」
そう言って駆ける足は何でわかるんだろう。あいつがどこにいるか。
大護軍のお屋敷の離れの裏、大きな槐の木の下にあいつはいた。
俺の声に驚いたみたいに振り向いて、その目が丸くなる。
何しに来たって尋ねる指の声に、俺は息を切らして頷いた。
「お前を探しに」
いいからもうほっといて。そう言うトギに俺は首を振った。
「ほっとけない」
そう言って、俺はしっかりその指を握った。
「ただこうしたかった、でも握ったら聴こえなくなるから、だからどうしようって」
こいつの手が、俺の手の中で文句を言うみたいに動く。
どうしよう、どうしたらいいんだろう。
話させてやりたい、でも離したくない。
何だろう、俺は何をしたいんだろう。どうしたらいいんだろう。
「わかんないけど、でも」
その声に諦めたみたいに笑うトギが、俺の顔を見る。
その目にやっと手を離すと、トギがその指で言った。
じゃあ、あたしは目で話すようにする。
「え」
声は出なくても、唇で話すようにする。
「トギ」
それを読めばいい。手を握ってる時は。
「・・・うん」
あんたは鳥や獣の声を聞く時、手も読まないだろう。
「ああ」
じゃあ大丈夫。鳥や獣よりは、あたしの方がおしゃべりだ。
「そうだな」
だって笑ってる目を見るだけで、もう怒ってないって分かる。
分かるから、俺たちはだいじょうぶだ。もう喧嘩は終わりだ。
ただ驚いただけなんだよって、トギのその目が言ってるから。
「驚かせて、ごめんな」
鳥に急に手を出したら飛んでくみたいに、兎に急に手を伸ばしたら跳ねてくみたいに、俺はしちゃいけない事をした。
「ごめんな」
もういいよ。その目が言うから。唇が動くから。俺は安心して大きく息を吐いた。
*****
「ああ、楽しかった!!」
全ての片づけを終えた時には、庭はすっかり薄闇に囲まれていた。
頑として俺達の手出しを拒み、酔客たちは律義に箸を下ろし、皿をすすぎ、庭を掃き清め、居間を整え、空の酒瓶を寄せてからようやく宅を辞して行った。
この方が強引に握らせた、歩哨や留守番の者達への土産の包みを手に、口々にもてなしへの丁寧な礼と、楽しかったとの言葉を残して。
最後にタウンとコムが離れへと退いて行くと、庭の中は昼の喧騒が嘘のような静寂に包まれる。
「なんだかこうなると、少し寂しいわね」
「そうですか」
「うん」
宴の後か。そう思いながら静かな庭を見渡す。
「みんなも、楽しんでくれたかなあ」
「ええ、恐らく」
暑い中で炭火の横に立ち、陽に灼けたのだろう。
この方の赤くなった鼻が気になる。
井戸へと寄ると釣瓶で水を汲み上げ、懐から出した手拭いを濡らして絞る。
濡れた布を手に戻り赤くなった鼻先をそっと押さえると、この方は瞳を閉じ大きく息を吐いた。
「はー、気持ちいい。陽に灼けたのね」
そう言って目を開き、次に悪戯な瞳が俺を見上げた。
「あなたは、黒くなったわ」
その声に薄闇の中、己の腕を透かし見て確かめる。
「そうですか」
「うん、夏休み明けの小学生みたい」
何がそれ程おかしいか、この方はご自分の言葉にくすくすと笑う。
「遊んできました、夏を楽しみましたーって感じよ」
「・・・楽しみました」
この方が横に居る。家族の皆が周囲に居る。
まるで赤月隊で過ごしたあの頃のように。
あの頃よりも、ずっと多くの大切な家族を背負って。
誰よりも大切な、己の全てで護りたいこの方を横に。
酒を酌み交わし、話に花を咲かせ、ふと視線に気付き眸を上げれば愛しい方が其処に居る。
それ以上の何が要る。
何も要らぬ。護りたいだけだ。
夏の光の許の今の全てを、この命の続く限り。
簡単な事だ。最良の方法はいつでも単純に出来ている。
護りたいから護る。いつであれ正面から挑む。
もう捨て身になる事は許されん。それでも負ける気はせん。
何故なら死ねぬから。
この方が横に居る限り、俺が先には死ねぬから。
「ねえ、ヨンア?」
「・・・はい」
「最近、どうして抱き締めてくれないの?」
「・・・暑いでしょう」
「そんなこと気にしてたの?!」
この方が呆れたように、大きく嘆息する。
「嫌われたかなあって、ちょっと心配して損した」
薄闇の中の白く小さな手。細い薬指に光る、永遠の誓いの石。
その金の輪を右手の指で弄び、この方は安堵したように笑う。
「暑くても、寒くても、抱きしめて。いつでも一緒にいて」
ああ、始まった。この方の我儘が。
俺を有頂天にさせるだけの懇願が。
「・・・はい」
「皆、あなたが大好き。でもあなたを一番愛してるのは私」
「はい」
「ほんとに、分かってる?」
「はい」
「じゃあ、ちゃんと言って」
この方の甘いねだり声に息を吐き、大きく腕を広げる。
きつく抱くのはまだ怖い。暑くても暑いとは言わぬだろうから。
広げた腕をゆったりとこの方へ回し、花の香の髪に鼻を埋め、その鼻先でこの方の白い耳を探す。
見つかったその貝のような耳朶へ唇を寄せ、俺の知る、あなたの知る天の言葉を息だけで落とす。
「聞こえない」
この方が、息だけの声に擽ったそうに笑う。
「確りお伝えしました」
耳から唇を離して言うと頬を膨らませ此方を見上げる、腕の中の白い顔。
薄闇の中の鳶色の瞳。尖った紅い唇。
夏の便りは今日受け取った。そして秋が其処までやって来ている。
互いの温もりの恋しい季節が、すぐにやって来る。
その頃には腕の中のこの方は白い衣を纏い、永遠に俺のものになる。
そして俺は、永遠にこの方のものになる。あの家族たちに囲まれて。
そうすればいつでも言おう。朝に、昼に、夕に、宵に。
命が続く限り、不安にさせぬよう、心の底から伝える。
薄闇の中緩やかに抱く腕に力を籠めぬよう、どうにか堪えながら。
この瞼の裏、遠からず訪れるその日を俺は夢想する。
【 夏便り | 2015 summer request・鰻 ~ Fin ~ 】

皆さまのぽちっとが励みです。
お楽しみ頂けたときは、押して頂けたら嬉しいです。
にほんブログ村
今日もクリックありがとうございます。

コメントを残す