紅蓮・勢 | 59

 

 

「ただいま」
テマンと2人で部屋に戻ると、窓の脇で腕を組んで背を向けてた大きな鎧姿。
その首から上だけが肩越しに振り向いた。
下から掬うような鋭い目が、ぴたりと迷いなくこっちを見る。
怒ってるようには見えない。だけどご機嫌よくはないわね。
「どちらに」
その声にテマンが
「医務室に行ってきました」
そう即答して頭を下げる。
「怪しい奴はいませんでした。医仙があの若い男から書状を」

あら。あらららら。
テマン、全部きれいにばらしちゃうのね。
そうよね、考えてみれば分かるはず。
誰よりこの人が大切なのは、私もテマンも一緒だもの。

「そうなのですか」
この人がテマンを見つめていたその目を、次にこっちに向ける。
「うん」
隠したって仕方ない。
素直に頷いて、私は握っていたイ・ソンゲからもらった巻紙をこの人に向かって差し出した。
「お守りをもらってきたの。言質を取ったって、そう思われてもいいわ」
どっちにしろ見せるつもりだった。
漢文で書かれたこの達筆の書状、私じゃ読めないもの。

本当にイ・ソンゲが言った通りの事が書かれてるのか、どっちにしたって確かめてもらうつもりだった。
他の誰が確かめてもまずい。この人に直接見せなきゃって。
私が差し出したその巻紙を大きな手に取って、この人がぱらりと、書状を巻いた結び紐を解いた。

 

迎賓館に戻った時に二人の姿が消えていた時には、この方の我儘にテマンが振り回されたと思ったが。
まさか、イ・ソンゲに直談判とはな。
道理で突然の帰京の報せに、浮かぬ顔をしたはずだ。

この言質を取る段取りを、密かに練っていたのだろう。
この方からすれば、再び顔を合わせるのも声を掛けるのもさぞ厭だったに違いない。
それでもこうして言質を取って来るのは、この方らしい。
転んでもただでは起きぬ。まして先を知る方だからこそ。
ただ流れに身を任せ、出た目勝負の俺とは違う。

徳興君に顔を見せ幾度でも脅しをかけ、この方にだけは手を出すなと釘を刺す俺と同じだ。
だからこそその気持ちがよく分かる。

俺は忘れ得ぬ過去に怒り、この方は未だ来ぬ未来に祈る。

それが証拠にこの手ずからの文。
この先この方が何かを欲した時、己は何であれ無条件にそれを聞き入れると、感謝の言葉と共にイ・ソンゲが記している。
「なんて書いてある?」
この方が心配そうな顔で俺を見上げる。

「命を二度も救ったことに礼を。
そしてイムジャがこの先何かを望んだ時には、無条件で聞き入れると」
巻紙から眸を離しその瞳を覗き返して伝えると、榛色の瞳が心から安堵したように笑む。

 

良かった。 まずは約束を守ってくれたってことよね。
「ねえ、それってちゃんとした法的効力のある文書よね?」
念のために確かめると、あなたが困ったようにその目を細める。

「効力と言うか。落款もあり自筆ですから、見る者が見れば。
あ奴の明確な意思表示にはなります」
それならいいの。私はようやく安心して頷いた。
「あなたは奴を全く信用しておられぬですか。
こんなものまで用意させて」

あなたは呆れたみたいに息を吐くけど、そうよ、信用なんてしてない。
誰が信用なんてできるもんですか。いつかあなたを殺すって知ってるのに。
今だって、できるなら。

心の中のどす黒い部分が言ってるわ。
殺してやりたい。
もしできるならトギにでもキム先生にでも訊いて、毒を盛ってやりたいわ。
せめて苦しめずメスで確実に即死できるように、あの頸動脈をすっぱり切ってやりたいわ。
鍼を打ち間違えた振りで、急所を突いてもいい。

その心を打ち消す声を、必死で奮い起こす。
医者は何よりも倫理を大切にする。
ううん、大切にしないといけない。
学生時代からしつこいくらい、とことんそれを学ぶ。
医師はいつだって、人の命を左右する力があるから。
人に知られず証拠を残さず、殺す気になれば殺せる。
21世紀、新種のケミカル系の毒物は、知識があれば精製できない事もない。

だからこそ誰よりも命を尊重する事。
身分や貧富、人種や宗教や思想、好悪の情に関わらず全ての感情を排して目の前の全ての患者を平等に救う事。
奪えるからこそ、その恐ろしさを誰よりも知る事。奪えるからこそ、絶対に奪わないと心から誓う事。

でも人間だもの。その力を間違った方向に使いそうになることもある。
その間違った誘惑にどれほど迷いそうになるか、きっとこの力を持たない人にはわからない。
完全犯罪を目の前に、それを断ち切る勇気を奮うのがどんなに大変な事なのか。
未来なら警察の調査能力や周辺の事情聴取や、いろんなところからばれる可能性があるけど。
でも私の知識があって、そしてこの時代なら。

そこまで考えて、頭を振る。

そんな汚い手を使ってこの人を救うのを、きっとこの人が許すはずも喜ぶはずもない。
だからそれは最後の最後よ。
最後にそうなったら、嫌われたって構わない。私はきっとそうする。でもそれまでは。
人間としての理性が働く、医者としての倫理が働くその最後の瞬間までは。
心の中、頭の中の天秤が傾く、最後の瞬間までは。
「私、努力する」

小さな声で呟いた一言に、あなたが目を細めた。

 

医仙が小さな声で呟いた。 何を努力するって言うんだ。
大護軍が声に静かに頷いた。 大護軍は何がわかるんだ。
二人の間に流れる重い空気を、一歩下がって俺はじっと見る。
そこに何かの匂いを嗅ぐように鼻を利かせてみても、何も嗅ぎ取ることはできない。
雨の前、雪の前みたいに、季節が変わる時みたいに、何かの匂いが感じられればいいのに。

でも大護軍にはわかってる。大護軍にわかってるなら、それでいい。
医仙も大護軍がわかってる事を知ってる。医仙が知ってるなら、それでいい。
俺はただ、二人が幸せになってくれればそれでいい。
大護軍が二度とあの丘でひとりぼっちにならなければ、俺はそれでいいんだ。
医仙が大護軍から離れて、泣きながらひとりぼっちで頑張らずにすむならそれでいいんだ。

これから二人は、うんと幸せになるはずだ。
あんなに離れ離れで、心の中で呼びあってきたから。
二度と離れないなら、それだけでいいんだ。

目の前の二人のその向こう、真赤に暮れていく窓の外の夕焼けの光は部屋の中も赤く染める。
光の中の二人の影が、俺の足元に伸びてくる。その影を踏まないようにもう一歩だけ下がる。

たとえ影でも、二人の邪魔はしたくないんだ。

 

 

 

 

皆さまのぽちっとが励みです。
お楽しみ頂けたときは、押して頂けたら嬉しいです。

にほんブログ村 小説ブログ 韓ドラ二次小説へ
にほんブログ村
今日もクリックありがとうございます。

にほんブログ村 小説ブログ 韓ドラ二次小説へ
にほんブログ村

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です