2014-15 リクエスト ｜ 輪廻・9

「韓医学？」
「うん、勉強してみようと思って」
「臨床に戻らずに？」
「研究機関に行こうと思う。ちょうど誘われてるし。幹細胞の研究なんだけど、元々興味もあったし。
ただそれとは別に、大学に戻って韓医師の資格を取ろうかなって」
「韓医師か、確かにアメリカでもNIHが研究予算を割いていると思う。でも中医学がメインだったんじゃないかな」

どこかで聞きかじった、ニュースソースも曖昧な情報だが。
呟いた俺にカフェの向かいの席に座る彼女が嬉しそうに頷いた。

「韓医学と幹細胞か、二極分化した専攻だな。新旧の極み」
「だからいいのよ、温故知新で相乗効果がありそう」
嬉しそうなその声が聞けただけで良い。
「応援する、頑張れよ」
「うん、ありがとう。ところで」
そう言いながら向かいの彼女は、頬杖をつきこちらを眺める。
「テウはもう、退職したんだよね？」

あのおでん屋の夜から、季節が変わっている。
彼女には新しい職務の事は一切話していない。
「ああ、したよ」
「新しい仕事は？」
その声に、笑いながら首を振る。
「心配するな、いつでもカフェでお茶奢るくらいは稼いでる」
「そういう事じゃなく」
「ごめん」
そう言うと、彼女はテーブルの向こうからじっと俺の目を見た。
「秘密？」
「秘密も秘密、極秘だよ」

ふざけながら言ってみる。取り扱う事件の機密情報が第三者に漏れれば免職だ。
俺の免職だけで済めば良い。最悪の場合は彼女を巻き込むことになる。
ヒョナの二の舞だけは避けなければいけない。
言わず見せず、聞かせず。それがベストだ。
「無理だけは、しないで」
そう言う彼女に向かって頷く。

夏、海に行く時間さえ取れないまま終わる。
秋、秋夕は韓国中が休みだなんて大嘘だ。
大学に戻り、研究所での仕事も大忙しの彼女と、国情院の任務に忙殺され自宅に寝に帰る俺と。
冬。新正月、旧正月、雪が降り、やがて溶け。
梅が咲き、桃が咲き、菜の花が咲いて桜に変わる。
どうにか一緒に過ごそうと、互いに悪戦苦闘する。

桜の散りかけた、ある温かい春の夜。
俺のスマホが、メールの着信を知らせる。
受信画面を見て、俺は立ち上がり大急ぎで車のキーを握る。
デスクの椅子の背に掛けた上着をひったくり、部屋を出る。
「キム事務官、帰るの？」
廊下ですれ違った同僚に、そう声を掛けられる。
「いや、少し出てくるだけだ」
その声に、声を掛けた彼女が興味深そうに目を開いた。
「顔に、デート、って書いてあるけど」
「プロファイラーも読み違えるんだな」
俺が仕返しにそう言ってやると
「あら、図星の癖に失礼ね」
彼女が肩を竦め、くくっと笑う。彼女と一緒にいた別の同僚が俺を窘めるように
「テウ、気を付けろよ。お互い徹夜も2日目だからな。明日の非番が待ち遠しいよ、あと1時間32分」
腕時計を見てそう言って、大袈裟に溜息をつく。
「何だってこう、ふざけた犯罪者が多いかね」
「さあ、俺達が失業しないようにだろ。行ってくる」
俺はそう言い、奴らを廊下に残して走りだす。
「ゆっくりな～」
そんな同僚の呑気な声を背中から聞きながら。

「テウ」
駐車場の入り口。侵入禁止ゲートに腰掛けていたウンスが目の前で急停止した俺の車に、驚いて立ち上がる。

呼び出された夜の盤浦の漢江市民公園。噴水橋の周りは今晩も人が多い。
「何かあったか」
車を駐車場に入れるのも降りるのももどかしく、 開けたままの車窓から顔を突き出し大声で尋ねる。
最近逢うのは彼女の研究所の近くか、大学の構内か。
そんな場所で、俺の仕事の合間に一時間かその程度。

夜に会うのも久しぶりなら、こんな場所で会うのも初めてだ。
何かあったかと勘ぐっても不思議ではない。
「何にも。何で？」
当の本人は平気な顔で、首を傾げて言って微笑む。
「いや、何もないんだったら良いんだ」
ようやく安心して、震えた息を吐く。
「下りる？乗る？」
そう確認すると、ウンスは外から俺を手招いた。
「お散歩しよう、明日休みでしょ？」
「よく覚えてたな」
少し驚きながら車から降りる。伝えたのは電話かメールか。
それすら忘れるくらい前に、ちらっと言っただけなのに。
「なので、私も有給を取りました！」
「本当に？」
「ほんとだよー、じゃーん！」

そう言いながらウンスは小さな紙をバッグから取り出し、両手の指先で摘まんで嬉しそうにひらひら振って見せる。
それを見ると、社内の有給届出用紙。その紙を掲げるウンスから顔を背ける。
笑み崩れたのがばれないように。
逸らした顔、その頬を両手で掴まれる。まだ指先に持ったままの届出用紙が、耳元で小さな音を立てる。
掴まれたまま、俺の頬はくいっと方向転換させられる。
目の前で、真っ直ぐこっちを見上げるウンスの方へ。
「嬉しい？」
真っ直ぐ問われたって。
「私は一緒で嬉しい。テウは嬉しくない？」
そんな声で聞かれたって。
「どっち？」
「う、れしい」
｢なら顔見せて。ちゃんとそう言って」
「嬉しいよ」

駐車場の入り口、オレンジ色の街灯に照らされた周囲の車列はしんと静まり返っている。
少し離れた噴水橋、人声、平和で長閑な暖かい春の夜。

職場に戻らなきゃいけない、少なくとも一度は。
だけど今だけは。

掴まれたままの頬を寄せる。腕が伸びる。
「嬉しい」
そう言って、目の前のウンスを抱き締める。
「凄く」

やっぱりあの時点で、早退するって伝えるべきだった。
時間の無駄だ。時は金なり。
それだけを少し後悔しながら腕の中の小さな体を、思い切り抱き締め直した。
その少し弾む息が、
「テウ、苦しいよ」
そう静かに訴えるまで。

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