2014-15 リクエスト ｜ 輪廻・4

駆けて駆けて、屋上まで出た。
一番空に近い。一番高麗に近い、きっと。
地上は全ての景色が、変わりすぎてしまったから。

はためく洗濯物のシーツやタオル、風が吹いてる。
頭の上の明るい太陽、今は、夏だっけ？冬だっけ？

ヨンア、そこにいる？
此処におります。
ねえ、そこにいる？
此処に、おります。

嘘つき。

「どこ？」

空を見上げて、そう訊いてみる。
「どこにいるの？」

ねえヨンア、どこにいるの？本当はどこに隠れてるの？
もう帰っても会えないの？
私がパソコンで頑張って天門が開く日を調べても、もうあなたはあの木の下で待っていてはくれないの？
あの時みたいに無精ひげを生やして、穏やかな瞳で振り向いて笑い返してはくれないの？
もうイムジャってあの声で、呼んではくれないの？

じゃあ私、何のために帰るの？
何のためにここに来たの？
何のために離れたの？
何のために生きてくの？

あなたがいないこの世界で、帰ってもあなたがいない高麗で。

「ヨンア？」

此処におります。

「ヨンア」

此処に、おります。

「ヨンア」

イムジャ、俺は此処にいる。
泣くな、いつでもあなたの傍にいる。離れたりせぬ。
あなたの行くところ、常に一番傍で護る。
悲しむな、あなたの涙は見たくない。笑って欲しい。
俺はいつでも、此処にいるから。

ねえ、どうして風の中にあなたの声が聞こえるの？
どうして太陽の向こうにあなたの笑顔が見えるの？
そんなのいらないから手を引いて、あなたのところに戻してよ。

ウンスヤ、傍にいるから。
「ヨンア」
手を引いて。あなたのところに戻してよ。
私たちが本当に運命の二人なら。

ウンスヤ、俺は此処にいる。
「ヨンア」
扉を開けてもう一度帰して。あなたに逢いたい。
逢える、何度だって巡り逢うはず。

ウンスヤ、

「ユ・ウンス！！！」

思い切り引かれた手に、バランスを崩して転ぶ。
屋上のコンクリートに擦れた肩が痛い。膝も、肘も。

「何する気だ、馬鹿野郎！！」

誰、この人。何でいきなり怒鳴るの。
握られた手が痛い。引っ張られた手首も、コンクリートに打った全身も。
肩を揺さぶられて、何か怒鳴られて。
でも、全てが水の中で起きてるような、ぼんやりした感じ。
何かを怒鳴ってる目の前のこの人の声も、よく聞こえない。

病室に見舞いに行った。非番の日。
あの時ユン先輩に一人で良いと言った。そして自分の制止が遅れたせいで彼女に怪我をさせた。
それだけが気掛かりだった。
柄にもなく見舞い用の花を持ち、彼女の入院する病室のドアをノックしようとした途端。

部屋の中で凄い音がした。何かを叩きつける音、倒す音。
常軌を逸したその音に、瞬間的に身構える。

まず考えたのは、あの容疑者本人か関係者が彼女に接触し室内で彼女と揉み合うような、最悪の状況だった。
警戒姿勢でドアを開けようとすると、中から人が飛び出して来た。
人影は女。小さく軽い衝撃。
俺にぶつかったまま廊下を駆けて行くその後姿が例のユ・ウンスに酷似している事を確認する。
開いたドアの隙間から室内に第三者の気配がないことを見て、そのままあの後姿を追いかける。

非常階段を走る小さな足跡が階段ホールに響く。
おそらく相手は素足だ。靴音が全くしない。
走り慣れないのだろう、すぐに真後ろまで接近した。

屋上のドアを思い切り開くとユ・ウンスは正面の洗濯物のスタンドの向こう。
手摺を超えるように上半身を大きく乗り出していた。

「ユ・ウンス！！！」

だいたいこのご時世に、屋上への出入りが自由でおまけに自殺防護フェンスがないこと自体がおかしい。
そう思いながら、その背中に向けて駆け寄り、手首を掴んで、思い切りこちら側へ引っ張った。
ふざけるな、怪我はさせたが命に係るものじゃない。
こんな風に死なれたら、寝覚めが悪くなるだろうが。
刑事を退職するまであとわずか、今回が最後の事件になるかもしれない。死なせて堪るか。

「何する気だ、馬鹿野郎！！」

目の前に顔を突き出し肚の底から怒鳴るが、声がその耳に届いているとは、到底思えない。
彼女は焦点を失った目を泳がせながら、俺ではない何処かを、何かを、誰かを探している。
そしてその明るい色の瞳を静かに閉じて、気を失った。
屋上のコンクリートに横たわった小さい体を抱き上げて、俺は急いで非常階段へ向かった。

「入院していながら栄養失調とは」

病室の中、ベッドに横たわった私に向けて、ドクターが苦々しく呟いた。
「点滴、今回以外では抜いたりしていませんよね？」
私は黙って首を振る。していない、と思う。
分からない、自信がない、寝ている間に何かしてる？
でもそんな事を伝えれば、最悪拘束衣をつけられる。
知ってるからわかる。あれは辛いって。

「指節以外には外傷がないので、点滴は最低限でしたが。経口固形食の摂取が無理なら、点滴を増やしましょう」
それも困る。不便なのよ、いろいろと。
「いえ、内臓機能が低下するのも嫌なので、固形食で」

ドクターは溜息を吐くと、首を振った。
「ユ先生。同じドクターの立場で言いますが、一度精神科の診察を受けてみませんか？」
いずれ提案されると思っていた。
私も同じ状況の患者がいれば同じ提案をしただろう。その提案に曖昧に首を振った。
「理由は分かってるんです。だから精神科の診察は」
そう、今の自分の状況は分かってる。
精神科を受診してこの痛みから逃れられるなら、受診するのは全く問題ないけど。

婚約者と二度と会えなくなったんです。
婚約者は、私が知っているよりずっとずっと早く死んでしまうそうです。
多分私があの時、一人で彼を置いて、高麗を出てきたせいで。
正直にそう伝えたら、どんな薬が処方されるんだろう。
そんな心の痛みに効果のある薬なんてあるの？

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