2016 再開祭 | 気魂合競・丗玖

 

 

振り返ると予想通り、あの女人が両手を口に当てて再び叫んだ。
「ヒードーさーーん!!」

一体何処までふざけておるのだ。
唯でさえ群衆の中で人目を引いておきながら、あんなでかい声で叫ぶなど正気か。
迂達赤隊長たちだけではない。周囲の者らが一斉に、中央に向かい合う俺達からその声の主へと目を向ける。

そんな注視をものともせずに、女人は大声で叫び続けた。
「ヒドさん負けるなーっっ!!ぶっ飛ばしちゃえーっ!!」
そう言って人垣の一番前から両腕を振り回す。

振り返れば離れた長椅子の上、先刻のよう慰める訳にも行かぬ弟は酷い頭痛持ちのような顰め面で小さく顎を振っていた。
周囲を守る者らもそんな女人を止めるでもなく野放しのままだ。ヨンの手前、口を塞ぐ訳にもいかぬのだろう。

それなら黙って人垣から引き摺り出してしまえば良い。
誰も彼もが弟に倣い、野放図な振舞いを許すから調子に乗る。

だが俺の視線に気付き、周囲の奴らも女人の振舞いを止めるどころか、それを後押しするように俺に向けて力強く頷いた。
長が馬鹿なら、従う者らも馬鹿だ。そしてそんな馬鹿を育て上げた赤月隊も俺達も、皆が等しく馬鹿という事だ。

舌打ちをして目前の男に向かい合う。この男の言った事は正しい。
今まで幾人もこの手で殺めてきた。刹那の温かさと引き換えに。
そうまでしても、生きていたかったのかも知れん。もう一度だけ生きて弟に再会するまで。

この男はそうやって手に入れた金財である情報を用いて人を操り、弱みに付け込み、今まで稼いで来たのだろう。
但しこの男の与り知らぬ最も貴重な金財がある。
今の俺は弟を護る為なら、甚だ不本意ながらあそこで叫ぶ女人を守る用意と覚悟がある事を、この男はまだ知らぬ。

久々に心の底から沸き上がるものがある。あの頃、あの生臭い飛沫の中でだけ思い出せたもの。
堪え切れずにその懐かしさに従ってみる。

恐らく俺は笑っている。自由な裸の掌を風に晒して。

視線を上げて見据えると男の顔が引き攣った。そして同時に長椅子の方からあ奴の声がした。

「・・・ヒョン!」

その声に振り向かぬ俺と相手の目がかち合った刹那。
張り詰めた雰囲気に耐えきれなくなったのか、審判の大声が飛んだ。

「始め!」

姿勢を低くし、肩から相手の腹に思い切りぶち当たる。
相手も此処まで残って来たのはその情報の力だけではないらしい。
全力で当たった俺の衣の腰に手を伸ばすとそのままがっちりと抱え込み、互いの足が止まる。

相手の腹に肩を押し込み、その腰帯に両腕を廻し握り締め、まずそれ以上の動きを封じる。
姿勢が高い分不利と思ったか、相手は腰を取られぬよう足を引く。
松葉を左右から割くように乾いた地面に互いの沓底が滑り、腰から下の互いの距離が離れていく。

それが狙いだった。重なり合った上半身、俺の体は奴の下にある。
相手が腰を引けば、抑え込んでいた俺の腰から腕が離れる。
その瞬間、奴の肚に当てていた肩に体重を預けて体を支え、自由になった右足を振り上げてその脇腹に膝を遠慮なく叩き込む。

重なり合った男の体が大きく揺らぎ、内腑を口から戻しそうな呻き声がした。
同時に力の抜けた男の体を当てていた肩で突き飛ばし、そのまま地面へ押し倒す。

飛び掛かってその体を跨ぎ馬乗りになりかけた俺を、審判の男が慌てて抑える。

「決まり!」
「やったーーっっ!!」

審判の声を掻き消すよう響く、厚い雲を割る光に似た歓びの声。
女人が人垣の先頭で春兎のように跳ねていた。
そして長椅子の弟を確かめると、奴は一度だけ頷いた。

審判の男に高々と掲げられた裸の拳。
雨を運ぶ強い風が、黒染衣の袖を揺らして吹き去った。

 

ヒドが嗤った時、思い出していた。
あの暗い夜。血飛沫を浴びて微笑んでいた姿を。

その眼が剥き出しの掌を確かめた。
考える前に長椅子から腰を上げ、ひと声呼んだ。

「ヒョン!」

王様主催の角力大会。禁軍もいる。周囲には誤魔化しようもない人だかり。
此処で風功を遣い相手を切り刻めば、言い訳は利かん。

だが奴は腕を振り風を起こすような事はなかった。
相手に真直ぐぶち当たり、外功の武技だけで叩きのめした。
最後の足蹴りが烈し過ぎたような気はするが、それは角力に於いて禁じ手でも何でもない。

遣えなかったのではない。遣わなかった。
正面突破で勝ちを収め、袷から取り出した黒鉄手甲を嵌めながら面倒そうな顔で此方へ戻って来る兄を、長椅子から立って出迎える。

「ヒョン」
「煩いぞ、ヨンア。休ませろ」
出迎えただけでまだ何も言っていないのに顔を背け、ヒドは独りで勝手に長椅子の隅へ腰を下ろす。

皆が本気だ。綺麗汚いではない。
大切な者を護る為。負かした者に恥じぬ為。
もうこの世で会えぬ誰かの名誉を守る為に此処まで来た。

今何か声をかけても臍曲がりの兄が答えるとは思えない。
諦めてその横に並び腰を下ろそうとした時
「大護軍、ヒドヒョン!」

人垣の上からの大きな呼び声に、同時に顔を上げ眸で探す。
「・・・桟敷か。特等席だな」

広場の隅、人垣を遮るように伸びた大きな杉の木の上から手を振るテマンの姿に、ヒドが面白くなさそうに呟く。
それで気付いた。

「ヒョン」
「何だ」
「雷は落ちない」

これ程雷鳴が轟いている。
少しでも落雷の気配があれば、いくら勝負を見たいからと言ってあの賢い男が周囲で最も高い木に上がる筈がない。

「知るか。お前の雷も俺の風も」

ヒドは風功を遣うか遣わぬか余程悩んだのか、太い息を吐く。

「肝心な時に遣えねば、宝の持ち腐れにしかならん」
「時には正面突破も良いぞ」
「それはお主の得意技だ。お主が好きにやれ」
「でも」

話し続ける俺に業を煮やしたか、厭々その視線が俺に向く。
「教えてくれたのは、隊長やヒョンや皆だろ」
正直に伝えるとうんざりした顔のヒドは、長椅子を占領し、袖で顔を隠して寝転んでしまった。

袖の下に嵌められた黒手甲。
あの時振るおうと思えば振るえた筈だ。
あの方は叫んだ。何も知らずに。負けるな、ぶっ飛ばしちゃえ。
ヒドは笑った。あの夜のように。そして剥き出しの掌を確かめた。

俺の知るヒドならば、間違いなく風功を遣っていた。
俺以上の遣い手だ。内気が足りなかったとも思えない。
こうして真横に居ても、気が枯れた気配など感じない。
「ヒド」

寝転ぶ長椅子の頭の横、地べたに腰を下ろして呼ぶと
「先刻から何なんだ」
不機嫌極まりない籠った声が、袖の下から返って来る。

信じている。たとえ天地が返ろうと。
兄を信じられなくなればこの世で信用出来るものなど何一つない。
それでも下らぬ小石が爪先に当たり、この足を躓かせようとする。

唇を噛み締めて喉元の声を呑み込む。
信じていると口にするのは、信じていないと言うようなものだ。
しかしさすがの内功遣い。
俺に一手先を読む方法を教えてくれた兄は、突然がばりと長椅子から身を起こす。

まず俺を、そして広場の向こうのあの方を順に見比べた後、その鋭い三白眼が掬うように再び俺を見据える。
「・・・ヨンア。馬鹿も休み休み」
「判ってる」
「悋気も過ぎれば病だな。親の心子知らずとはこの事だ」

不貞腐れた呆れ声でそう言うと、ヒドは完全に此方へ背を向けて長椅子の上に伸びた。

 

 

 

 

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