2016 再開祭 | 銀砂・結篇(終)

 

 

「ねえねえ、怒ってるの?」

宵の中、背後から小さな慌ただしい足音が従いて来る。
「・・・いえ」

そんな俺の背から足音の主は、息を切らして言い募る。
「でも、本当に役に立った。中・・・元、とか、高麗の漢方医学とも違うし、でも私の医学とも違う。
チャン先生は私の話を聞いてカビから抗生物質を作ってくれたけど、リディアさんがいればもっといろんなことが出来るわ。
そうすれば、もっと役に立てるようにもなるでしょ?あなたにとって」

役に立つとはどういう意味だ。
この方が役に立たぬと思った事などない。未だかつて唯の一度も。
そんな心も知らずに捲し立てるのに腹が立つ。
役に立つから、国や王様や俺にとり便利で一緒にいる訳ではない。

「王様や媽媽のお役にも立てるわ。何しろ私の治療には、当時の器具が絶対必要だったんだもの。
それなしで何か有効治療が出来るなら」

此方の肚裡も知らぬ声に痺れを切らし、闇の中で足を止め振り向く。
その勢いに真後の足音がぴたりと止んだ。

「あなたの治療は充分役に立っている。何処の誰かも判らぬ女にあのように教えを乞わずとも」
「だけど、もっともっと知りたいんだもの」
「何処まで行けば満足ですか」
「もっとなの!あなたに何か起きないように、起きたら対処できるように。そうじゃないと自分が不安なの!」

だから困るのだ。
この方は欲張るばかりで、ご自身の事を顧みない。何も知らない。
神医が欲しいのではない。天の医術を持つから大切なのではない。

「イムジャ」
「・・・なに?」
「俺は」

何も出来なくて良い。ただ笑って、楽しく過ごして下されば。
ただこうして俺の横に居て下されば。三歩の距離で護れれば。
だが俺が思うように、この方も心から思っているのだろう。
守りたいとだけ。俺の為にだけ笑い、そして泣く方だから。

月だけが静かに辺りを照らす。

月光の降り注ぐ地は銀に耀き、落ちる二つの影だけが黒く。

一日典医寺に詰め、あの異国の女を注視して来た。
肚裡はともかくとして、この方を害す気配はない。
あれなら暫しの間、典医寺の一つ屋根の下に居ても不安はないか。
もしも何かあるとするなら、起きる前に侍医が鉄扇で凌ぐだろう。

防げぬならあの女諸共斬るしかない。
長年の朋とは云え、この方と天秤に掛けられるものなどない。
この世の中にただの一つも。

「お戻り下さい」
「送ってくれるの?」
「ええ」

今来たばかりの途を戻りながら、この方の明るい声が響く。
「遠回り、してもいい?」
途端に飛び上がりそうな心の臓を宥め、何食わぬ顔で頷く。

「チャン先生とリディアさん2人きりにしてあげたいの。あの2人、なんだかいい雰囲気だったでしょ?だから」

ご自分の事には全く疎いくせに、こんな処にだけ勘が働く。
呆れて息を吐く俺に頬を膨らませ、拗ねたような声が言う。
「そう言わないと、まっすぐ送り返されちゃいそうなんだもの。ほんと鈍いんだから。こんなロマ・・・素敵な、夜なのに」

・・・侍医の事か。それとも。

踏み締める足許で、銀の砂が鳴る。
ようやく並んで歩き出したこの方の、月に浮かぶ横顔を盗み見る。
濡れた月明りを切り取る長い睫毛。
月を映して輝く瞳が視線に気づき、不思議そうに此方を見上げる。
「なぁに?」
「・・・いえ」

奴はどうなのだろう。気付いているのだろうか。
あの女を連れて来たのは、本当にこの方との再会を果たす為か。
典医寺を出る時はそうは見えなかったと、今朝の様子を思い出す。

あの冷静で頭の固い、医以外に興味を持たぬ男が、本当にこの方に引き合わせる為にだけあの女に会いに行ったのか。
そうでなければ良いと思う。心が先に走り出したのなら良い。
俺がこの方と出逢って知ったように、心が先に動くなら本物だ。
その時思うようになる。死ねない、大切な者を一人で残してと。

明日をも知れぬ世に生きるから、温もりの大切さが誰より判る。
奴にも思って欲しい。誰よりも他者の為に己の命を擲つ男だから。

遠回りを言い出したのはこの方からだ。
銀の地に並ぶ黒い大きな影がいつもより半歩近く寄り、小さな影が楽し気に揺れた。

 

*****

 

「落ち着かれましたか」
「ありがとう。すっかり」

就寝前の茶を口実に、リディア殿の仮の寝所の扉を叩く。
部屋から出て来たそのひとは、扉を開け私を中へと通す。
礼儀として戸は開けたまま蝋燭の揺れる部屋内へ進み、隅の卓へ盆を据えてそれぞれ腰掛け向かい合う。

「無理をお願いし、申し訳ない」
「いえ。私こそ医仙やチャン先生と話せて良かった。まさか高麗にヒポクラテスをご存知の医官がいらっしゃるとは」
リディア殿は頷くと、運んで来た茶を静かに一口含み
「ああ、美味しい」
とほっとしたように息を吐いた。

「チャン先生はお茶を淹れるのも上手だ。カモマイルですか」
「カモマイル」
「ええ。我が国では大地の林檎と呼ぶ。お茶に入っていませんか。白い小さな花です」
「加密列でしょうか」
「カミツレ・・・」

そう言いながらこのひとは、茶碗から立ち上る香気豊かな湯気を深く吸い込んだ。
「他には何が」
「洛神花と野薔薇を調合しました」
「薬草名は難しいですね。これはカルカデにも似ている」
「カルカデ、ですか」

茶について話すだけでも異国の言葉が飛び、互いに繰り返さずにいられない。
紅い茶のたてる湯気、揺れる蝋燭の灯。
その中で碧の瞳も黒く濃い眉も、以前の時より穏やかに見える。

あの時は散々な目に遭ったと思わず笑みを浮かべると、碧の瞳が私を見て瞬いた。
「何ですか」
「・・・前回の、厩の事を思い出して」
「ああ」

その瞳がもう一度、今度は楽しそうに光った。
「あの時の子たちは、皆元気ですか」
「ええ。恐らく。私はそう馬を駆る機会はないので」
「ここにいる間、また伺っても良いですか」
「勿論です。隊長にお願いしておきましょう」
「隊長といえば」

医仙の明るい茶の目も始終表情を変えるが、この碧の瞳はそれともまた違う。
あの茶色い目はお心を隠さないが、碧の瞳は心を隠し損ねた時だけ動くようだった。

「あの子は可愛がられていますね」
「あの子、ですか」
「近衛隊長の、栗毛の馬」
「ああ。呂布と赤兎馬のようなもの、隊長の命令しか聞きません」
「そうでしょうね。あの子は近衛隊長が大好きだ。それにとても大切にされている」
「そういう方です。馬も剣も兵らも、絶対に他人任せにされない」
「医仙も」
「え・・・」

女人の勘というのは恐ろしい。いきなり言い当てられ、何と返答して良いものか。
正直に言えば隊長の雷が待っている。あの方の場合、例え話ではなく本気で落とす。

「・・・私の口からは何とも」
私の答にならぬ答えに、リディア殿が噴き出した。
「そういう事にしておきましょう」
そして碧の瞳が上がり、ゆっくりと窓の外を見る。

そこに広がる銀の月景色。典医寺の木々が切り取る影絵。
「今晩の月は、砂漠の月と同じ色だ」
「そうなのですか」

興味を惹かれ、私も窓の外の月を見上げる。
これがこのひとの故郷で見る月の色。
「美しいですね」
「ここだからかもしれない。薬草を育てているせいか、砂の質が良いでしょう。懐かしい味に似た茶も頂いたし」
「こんなもので宜しければ、いつでも」
「あなたは優しい人ですね」

そんな事を言われたのは初めてで、卓向かいの碧の瞳を見詰めてしまう。
見詰めた瞳は自信を持っているように、全く揺れずに頷き返す。

「あなたを切った時、私を庇う事などなかったのに庇ってくれた。
今日もそう。連れて来る事などなかったのに、医仙の為に連れて来ましたね」
「私が、知りたかったのです」
「それならあの場で幾らでも訊けたでしょう」
「それでは足りなかったのです」

あなたを衛士に差し出せば、何が起きたかも知らぬのに一方的に罪を被せてしまうかもしれないのが厭だった。
今日は足りなかった。あなたを知る為には刻が足りなさ過ぎた。
そして医仙が隊長の為に渇望する医の術を知るには、直接お会い頂くのが一番だった。
優しくなどない。そういう慾で動いている人間だ、私は。

「好きです」
「・・・・・・は?」

今まで生きて来てついぞ出した事のない、素頓狂な声が上がる。
碧の瞳が微笑むと、そんな常軌を逸した私を眺める。

「我が国では、他者の為に献身する者を尊敬します。私はそういう者が好きです」
「・・・ああ、はい」
「ですから私も善行を重ねたいと思います。チャン先生を見習って、ここにいる間は」

そして碧の瞳はもう一度、窓の外の銀の月を見た。
「故郷の月と同じ月も見られた。神の思し召しでしょう。善き事を為せと」

その月の色。降り注ぐ月光が銀に染め上げる典医寺の庭。
この色を見るたび、其処にこの碧の瞳を思い出すだろう。

面映ゆいような気持ちで、庭に広がる一面の銀の砂を見る。
見た事もない銀の砂漠に佇むこのひとの、風に靡く黒い髪を。

「昼間のお返しです」
最後に言った碧の瞳の、裏に隠す意味が思い当たらずに
「明日は、薬剤を教えて下さいませんか」

私の声に碧の瞳だけでなく黒い眉までが、機嫌悪そうに眇められた。

 

 

【 2016 再開祭 | 銀砂 ~ Fin ~ 】

 

 

 

 

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