2016 再開祭 | 玉散氷刃・拾玖

 

 

診察室から裏廊下を抜けたウンスが自室の扉を開けると、呆れ顔で立ち尽くしていたチェ・ヨンが頭を下げる。
「ヨンア、待たせてゴメン。ううん、それだけじゃなくいろいろ、でも」

ウンスが駆け寄って機関銃のように捲し立て始めるのにゆっくりと首を振り、チェ・ヨンは部屋の卓を視線で示す。
そこには椅子に座って湿った音で鼻を啜り、真赤な目を押さえるオク公卿がいた。
ウンスのすぐ後に入って来たキム侍医が怪訝な目つきで公卿を眺めた後、どういう事かと問うようチェ・ヨンを見た。
チェ・ヨンは小さく肩を竦め、仕切り直すように涙に暮れる公卿の許へと一歩寄った。

「オク公卿殿」

その声にチェ・ヨンの存在を、そして自身が何処にいるかを思い出したように、公卿がようやく顔を上げた。
そして揃った他の三人の顔を順に見つめると、また真赤な目から滂沱の涙が溢れ出る。

ウンスの誘拐がオク公卿の仕業と知らないキム侍医は公卿を気の毒に思ったか、歩み寄ると柔らかな声をかけた。
「オク公卿様。奥方の出産は無事に終了致しました。途中確かに大変な思いをされましたから。
この後はどうぞゆっくりご快癒にお努め下さい」
「・・・私に、そんな資格は」

その鼻声にチェ・ヨンが小さく舌を打ち、ウンスが唇を噛む。
そこで初めて二人の様子から異変を察した侍医が
「公卿様。間違っていたなら申し訳ございません。医仙の此度のお留守の事を、何か・・・」
「医仙を拐したのは、私だ」

悪い予感が当たったと、いつもなら心の内を計れない薄い笑みを浮かべる侍医の表情が改まる。
もう一度チェ・ヨンに視線で確かめると、その黒い眸が事実だと裏付けるように頷き返す。
次にウンスへ視線を移すと、困ったよう眉を下げながらウンスはこくりと頷き
「あの・・・お父さん?公卿様はこの後どうするんですか?
ううん、それよりまず、何故奥さんが赤ちゃんを産んだら困るんですか?」

その問い掛けに事態を把握した侍医が呆れたように口を開く。
開きはしたものの、しばし言うべき声が出て来ない。
「・・・子が、要らぬのですか」
「要らぬわけでは」
「しかし奥方様に産んでもらっては困る、と。それでウンス殿を攫ったのですか」
「傷つける気は毛頭なかった。いずれ必ず無事でお返しするつもりだった」

公卿の声にチェ・ヨンが一歩出た時、先に鋭い声を飛ばしたのはキム侍医だった。
「いずれとは、いつの事だ。難産で奥方が腹の赤子と共に死んでからですか!」
普段なら絶対に声を荒げぬ男の一喝に、チェ・ヨンの歩が止まる。
そしてウンスが驚いたように肩を跳ねさせ、目を丸くした。

「き、キム先生」
「勝手な事を言うのもいい加減にしろ。私たちはあれ程説明した筈だ。
命が懸かっていると、母子とも戦わねばならぬと。私たちも精一杯努めると。ウンス殿にしか施せぬ医術だと!」
「先生、先生ちょっと落ち着いて」
「公卿もご覧になった筈だ。奥方が腹を割かれた処を。麻佛散で術中は眠れても、それが醒めれば傷は痛む。
腹を割かれた痛みがどれだけか想像できるか。その痛みも代われぬのに。
要らぬ子を産む為に、奥方は苦しんだのか。要らぬと言われる為に、子は産まれたのか!」
「先生!」

これ以上聞くに堪えぬのか、それとも医師としての領分を越した侍医を諫める為か、ウンスが侍医の前に出た。
「もうやめて。怒鳴り合う為に集まってもらった訳じゃないの。私の誘拐はこの際どうでもいいわ、こうやって無事なんだし」
「そうはいかん」

次はこっちかと、ウンスが声の主を振り返る。
チェ・ヨンは鬼剣を手に仁王立ちのまま、オク公卿を凝視する。
その冷たく凍った黒い眸だけで、鬼剣の一撃よりも威力がある。
公卿はその眸に射竦められて、何も言えずに体を固くしていた。

「此方は構う。良いか。ここで赦せば同じ事が起きる。あなたを攫って直訴するような輩が現れる」
「そんな事」
「ないと言えますか」
「それは、だけど犯罪に手を染める程の事情ってよっぽどよ。まずそれを聞いてからでも遅くないって言いたいのよ!
どうして誘拐を考えるような事になったのか、もう生まれてる赤ちゃんをどうするのか、どうしたいのか、ちゃんと聞かなきゃ解決しないわ!」
「成程」

ウンスの力説にチェ・ヨンは立ったままで顎を上げると、其処から座る公卿を睥睨した。
「言え」

公卿はその眸に唇を噛む。
「言え」

それでも頑なに口を開かぬ相手に痺れを切らし、チェ・ヨンがもう一歩大きく卓に詰め寄った時。

遠慮がちに裏扉が叩かれる音がする。
ウンスが急いで駆け寄って開くと、先刻の約束通りに茶を運んで来た薬員が、困り顔でその茶を盆ごと差し出した。
「・・・本当に申し訳ありません、間の悪いところに」
蚊の鳴くような声で詫びの言葉を囁く薬員に、ウンスが首を振る。

「ううん、いいのよ。来てくれて助かった。お母さんは?」
「眠っておられます」
「赤ちゃんは?」
「健やかです。産湯も終わって」
「良かった。何か変わった事があったらすぐ教えてね?」
「はい」

茶の乗った盆を捧げ持ったウンスに頭を下げると、薬員は急ぎ足で診察室へと廊下を戻って行く。
「ひとまず、お茶を飲みましょ。みんなピリピリし過ぎ」

卓まで盆を運び、ウンスはまずチェ・ヨンを、そして続いてキム侍医を見た。
「座って」
その声にチェ・ヨンとキム侍医、男二人が目を見合わせる。

「す わ っ て、下さい。ライトナウ!」
そう言いながらウンスはまず自分から椅子を引くと、迷わず公卿の横に腰を下ろす。

そうして奴の横に座り、暗に俺達に相対すると言っているわけか。
チェ・ヨンは腹の虫が収まらぬままウンスの正面の椅子を引き、どかりと腰を据える。
最後にキム侍医が眉間に厳しい皺を寄せたまま、チェ・ヨンの横、公卿の正面へ静かに座る。

ウンスは面々を見渡し、運んだ茶をそれぞれの前へ配って置いた。
「お父さ・・・えー、公卿様。こんな雰囲気で言い辛いと思うけど・・・どうして、赤ちゃんが生まれたら困るんですか?」

誘拐やら緊急手術やらで、気が付けば昨日から食べていない。
お腹が鳴りそうなウンスは声を切ったところで、確かめもせずにその茶を大きく一口飲んで予想外の熱さに驚き
「あ」

と言ったきり、吐き出す事も出来ずに涙ぐむ。

チェ・ヨンの視線が初めて動く。心配気に眉を顰め、勝手知ったる裏扉へ走ると無言で廊下へ飛び出していく。
「・・・火傷だけで、あれ程心配する男もいるのに」

キム侍医が呟くと公卿が初めて顔を上げ、正面から侍医を見た。
「侍医」
「何でしょう」
「熱い茶の心配で済む分には良い。判りますか。自分の見えぬ処で大切な者が熱湯で殺されるかもしれぬ怖さが」

物騒な公卿の言葉にキム侍医が首を傾げた。
「・・・判りません。奥方がですか。赤子がですか。一体誰に」
「私の母に」

オク公卿は心を決めたように、椅子の上で背を正し静かに言った。

 

 

 

 

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