2016 再開祭 | 棣棠・拾

 

 

「大護軍様」

揺れる灯りは、昨夜の金燭台の蝋燭のような豪勢なものではない。
今宵の灯火は場末の酒房の卓の上。
春の風のひと吹きで今にも掻き消されそうな、頼りなく質素な火。

角がささくれ乾き毛羽立った卓に向かい合い、端が欠けたような椀で安酒を呑み交わす。
それでも女人は楽しげに座った時から上機嫌で笑みを浮かべ、威勢良く椀を干していく。

「大護軍様は、誰を待ってるの」

そんな調子で椀が二、三度空になった頃。
女人は卓に片肘を突き、指先で卓上の椀をゆらゆら左右に揺すり、砕けた口調で訊いた。

「・・・何を」
「だーれーを、待ってるのぉ」
揺れる椀を見ていた瞳を上げ、灯の向こうから此方を見る。
その視線も声も、もう到底素面とは思えない。
酒には強いと思っていた。干し方も豪快と言って良かった。
まさかこんなに早く潰れると思ってもみず、口を挟まず呑ませておいたが。

「私を、イムジャって呼んだわ」
「・・・はい」
「そんな風に呼ぶ、大切な人がいるのね」
「はい」

大切な方がいる。この薄暗い酒房、眸の前の灯の向こうに。

「口調も変だわ」
「は」
「みんなにはすごーく不愛想で怖いのに。私にだけは声が優しい。口調も丁寧。まるで別人みたい」
「それは」

あなたに手を焼く事など覚悟の上だ。そう宣言もされている。

私のお守は手が掛かる、諦めた方が良いわ。

それでも手を焼きたいから、眸を離せぬから、共に居たいからと選んだ道だ。
まさかこれ程待つとは、それだけが思案の外だっただけで。

それでも逢えればそれだけで良い。
再会までの道程がどれ程険しかろうと、どれだけ長かろうと、再びあなたと巡り逢えれば。

あの声を聴き、そして朝も夜も共に居られるなら。
互いに二度と離れぬと、それさえ約束できるなら。

「ナンヒャン殿」
「殿は止めてくださいなー」
「・・・ナンヒャン」
「何ですかぁ、大護軍様」
「呼んで下さい」
「はい?」

呼んでくれ。これが最後の頼みの綱だ。
あの時呼んで下さった、あの呼び方を御存じならば。

隊長。てー、じゃん。

たどたどしい口調で、初めて呼んで下さったように。
そう呼ばれて、初めて隊長で良かったと思えた。
そしてあなたがあの甘い声で呼ぶのは俺だけで良い。
西京軍だろうとチュンソクだろうと、北方だろうと官軍だろうと、数多の隊長の誰一人、あんな風に呼ぶ事は許さない。

そして女人は、あの三日月の瞳で言った。
「呼んでおりますよぉ、大護軍様」
「そうではない」
「それ以外の呼び方を、知りませんよー」

其処まで言われてこの顔に笑みが浮かんだのを、不思議そうに見る酔払いの瞳。

「やはりか・・・」

組んだ腕、竦めた肩が震える。涙ではなく込み上げる笑いで。
やはりだ。
俺が勇んだだけで。周囲が心配し、手を廻し、忠言した通り。

この女人はあなたではない。
帰りを待ち望み、昼も夜も夢に見続けたあなたではなかった。

今の皇宮内、王様に目下の大きな敵はおらぬ。
常に警戒せねばならぬのは、元の奇皇后一派。
同じ罠なら、嘘を吐くなら、それならあの方が北方に戻ったと噂を流せば良かったのだ。
信憑性は増し、うまく行けば俺が勇み足で軍を率いる分、開京の警備が手薄になる可能性があった。
其処で守りを分断し、より手薄になった方に攻め入る。俺の側でも、王様の側でも。
瓜二つの女人を、来るかどうかも判らぬ西京に置く意味がない。

其処で消えた最初の線。
この女人は俺を誘き寄せ、王様から引き離す口実にはならぬ。

次に考えた。女人が元の放った間者である。
色仕掛けで俺を惑わせるか、若しくはあの方本人として帰京して典医寺に潜り込ませる。
しかしそんな手間暇を掛ける必要は何処にもない。
もしもこの姿形で開京大路か皇宮大門に現れれば、詰まらぬ言質など一切不要だったろう。
畏れ多くも王様や王妃媽媽の御目を持ってしても、見分けがつくと思えぬ。
あの方を知る者全員がそれを信じ、すぐにでも入り込めた筈だ。

此処で消えた二つ目の線。
この女人は間者ではない。間者が素直に知らぬと吐く訳がない。

そして残った最後の線。
この女人とあの方は、偶さか同じ顔を持つ赤の他人である。
天の悪戯でそんな星の下に生まれただけの、全くの別人だ。

それでも信じたくはなかった。これ程長く待ったから。
あなたが俺をもう一度隊長と呼んで腕の中に戻る日を。

それでもあなたでなくては駄目だ。例えどれ程の生き写しでも。
赤の他人を腕に抱けば、自分自身が赦せない。
傲慢と油断とで手を離したあの日より、もっと深く己を責める。
そんな過ちを犯すなど二度と御免だ。

俺は戻ったあなたに伝えたい。堂々と胸を張って。

待っておりました。此処に居りました。何一つ変わる事無く。

それが一晩を費やし、俺の考えた結論だった。
答は高麗にとっての最善、俺にとっての最悪に落ち着きそうだ。
黙りこくった俺を前に、女人が気遣わし気な声を掛ける。

「ねえねえ、大護軍様」
「はい」

それでもその声で呼ばれれば、心はあの胸の痛む懐かしい日々へ引き戻される。
あの方にはいろいろな声で呼ばれた。
最初はさいこ。次にチェ・ヨンさん。そして隊長。
今更其処に大護軍が一つ加わった処で、然程違いはない気がする。

そしてそんな顔で呼ばれれば、別人と判っていても丁寧に返答をしてしまう。
呼ばれたいと思っているから。逢いたいとこれ程願っているから。

「私ねえ、すっごい特技があるんですよー」
「特技」
「うん。ちょっと待ってくださいね」

酔払いはその細い指でご自身の帯に伸ばし、そこに提げた袋を取り出すと、危ない手つきで中身を卓上にばら撒いた。

「・・・筮竹」
「よく御存知ですねー。こっちは」
「算木」

易を嗜むとは面白い女人だ。
此方の興味を敏感に感じ取ったか、つい今まで酔いに濁っていた瞳が途端に澄んだ。

「占って差し上げましょう」

場末の薄暗い酒房、片隅に響く小さな声。
決して強要しておらぬのに、如何しても首を横には振れぬ。
既に宣託のようなその声に酔いは欠片も見当たらなかった。

夜というのに烈しい一陣の春風が、筮竹と蝋燭を揺らして抜けた。

 

 

 

 

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